《仏陀の遺骨と48人の弟子の遺骨の続きです》

仏陀の遺骨と48人の弟子の遺骨を拝観後、会場内が撮影厳禁だったこともあり、中国から借用した千手観音の四つ切り写真を一枚、仏舎利の写真を二枚(〆て600バーツ 約1800円)購入しました。日本人的感覚からすれば普通の値段ですが、タイの庶民感覚からすると“ 高い !”のでしょう、羨ましそうな視線を浴びてしまいました。

仏舎利の展示会場からヤーン・ナーワー寺院の境内に出ると、アユッタヤー王朝の大航海時代(西暦17世紀~19世紀)に活躍したタイ独特の大型帆船( ルア・サムパオ เรือสำเถา )が、寺院境内の西側敷地内にデンと居座っています。

とは言っても、寺院の敷地内に造船所があるわけではありません。過っての大航海時代に活躍した大型帆船を模したこの白亜の構造物は、れっきとした王室寺院(下写真)なのです。


アユッタヤ王朝時代(17世紀~19世紀)の外国航路帆船のルア・サムパオ เรือสำเถา
全長:43m、全幅:9.5m、全高:5.5m

よくよく見れば、この船に装備されていた二本の帆柱の跡に、二基の白亜の仏塔が聳えています。寺院の入り口は、本来ならば、舵板が取り付けられている船尾(上写真右側)にありました。

船尾の開口部から中に入ると、上甲板に上る階段が設けられています。見上げると、雨季にしては珍しく晴れ上がった青空の中に、純白の仏塔(下写真)が眩しく聳えていました。この構造物は、紛れもなくタイの仏教寺院だということが分かります。


船の上甲板の中央に聳える白亜の仏塔と両舷に備えられた半鐘

この寺院の本堂の在り処は、理由は定かではありませんが、寺院敷地の西側にある事を、前々回のBLOGで既に説明済みです。二基の仏塔が上甲板に聳えていることも確認できました。それでは、寺院の礼拝堂は何処にあるのでしょうか?

上甲板に登って船首方向を見遣ると、二基の仏塔以外には施設らしきものは見当たりません。先ほど見た船底内にも、礼拝堂らしき部屋はありませんでした。船尾方向を振り返ると、上甲板よりも一段高くなった船尾楼に、船体を操船する船橋らしき建物(下写真)が見えます。


船尾楼の船橋(航海の指揮所)

ひょっとしたら、本堂が礼拝堂を兼ねているのかも?と思いつつ、船尾楼の船橋に足を向けると、小さな、礼拝堂がありました。船橋(航海の指揮所)が礼拝堂になっていたのです。狭い礼拝堂の中で、、家族連れや中学生の仲良しグループが、仏像に祈りを捧げたり、雑談を交わしたりしていました。仏陀の遺骨と48人の弟子の遺骨ืの展示会場で見かけた人達ばかりです。


ワット・ヤーン・ナーワーの小さな礼拝堂

この寺院が王立寺院だからなのでしょうか、礼拝堂の壁に、現王朝の皇太子と皇太子妃が、この礼拝堂に参拝された時の写真(下左写真)が飾られていました。

中学生一年生の仲良し三人組が微笑ましい会話をしていました。
A『 学校の成績がよくなるように祈ろう
B『 Cちゃんは頭が良いから祈る必要ないよ
A『 そうだね!Cちゃんは必要ないね
B『 Aちゃんは、真剣に祈らないと駄目よ
A『 Bちゃんもね
B『 アレッ、Cちゃんが一番先に祈っているよ


左:礼拝堂の御本尊に祈りを捧げられる現王朝の皇太子と皇太子妃
右:祈りを捧げる中学一年生の仲良し三人組

礼拝堂の入り口の脇に、頭陀僧( พระธุดงค์ )の小さな像が安置してありました。タイの僧侶は、誰もが頭陀行( ไปธุดงค์ )をするので、頭陀僧の仏像は特定の僧侶を表しているのではないと思っていたのですが、礼拝堂にいたタイ人の説明によると、タイで見かける頭陀僧の仏像( พระธุดงค์ )は、釈尊の弟子だった“ プラ・スィーワリー ”พระสีวลี を表しているのだそうです。

日本の書籍によると、プラ・スィーワリー は、釈尊の十代弟子の中に含まれていないのですが、タイでは四番目の地位に位置づけられているようです。

因みに、先ほどの仏陀の遺骨と48人の弟子の遺骨の会場では、プラ・スィーワリー の舎利(遺骨 พระธาตุ )は、釈尊の右腕で知恵第一の“ サーリーブッ ”พระสาลีบุตร (舎利佛)、そして、左腕の神通第一の“ プラ・モーカンラーナ ”พระโมคัลลานะ (目連)の舎利(遺骨)と並んで展示してありました。


左右:頭陀僧姿のプラ・スィーワリー พระสีวลี

礼拝堂前に安置してあるプラ・スィーワリー頭陀行の姿( ไปธุดงค์ )を間近に見て、初めて、頭陀僧の携行品の全て、つまり、野宿をするための蚊帳付き長柄傘(クロッツ กลด )、頭陀袋(トゥン・ヤーン ถุงย่าม )、鉢(ビン・タバーツ บิณฑบาตร )、水筒、法杖などを確認することができました。

昔の僧侶は、カーオ・パンサー(入安居 เข้าพรรษา )からオーク・パンサー(出安居 ออกพรรษา )の雨季の期間(三ヶ月)を除き、このような格好をして頭陀行( ไปธุดงค์ )をしつつ行脚を続けたのだそうです。

今でも、短期的な出家僧の中には、雨季が開けるオーク・パンサー(出安居 ออกพรรษา )の頃になると、卒業の修行旅行を兼ねて、頭陀行( ไปธุดงค์ )をする人がいるのだとか。


チョット長いBLOGになってしまいました。続きは次回にしたいと思います。