バンコクの新ビジネス街ともいえるサートン通りにあるホテル内の喫茶室でコーヒを飲んでいた時のことです。僕の後ろの席で雑談を交わしていたタイ人の中年女性グループの一人から、不意に声を掛けられました。

チョット驚いて振り返ると、何と! 僕が某国立大学の社会学部歴史学科でお世話になったA准教授でした。余りにも奇遇なので、彼女のお連れの中年女性達に催促されるまで、二人は長々と話し込んでしまいました。

彼女の話によると、サートン通りに近いバーン・ラック地区にある王室建立寺院ืの“ ワット・ヤーン・ナーワー ” วัดยานนาวา に詣でた帰りなのだそうです。別れ際に、『 滅多にないチャンスだから、是非ともヤーン・ナーワー寺院に参拝してね! 』と言って、一枚のA4の紙を僕に手渡し、彼女と友達は去って行きました。


チ゛ャオ・プラヤー河の河畔に建つワット・ヤーン・ナーワーの正門

彼女に手渡されたA4の紙を見ると、タイ語文章で何やら書いてあります。

มหาพุทธบูชาพระบรมสารีริกธาตุโลก ขอเชิญกราบนมสการพระบรมสารีริกธาตุชอง....พระธาตุ ของอัครสาวกอีก ๔๘ พระองค์ เช่น พระสิวลี ณ วัดยานนาวา

平易に要約すると、次のような内容の告知文書でした。
ヤーン・ナーワー寺院で、世界の寺院からお借りした偉大なる仏陀の遺骨と仏陀の48人の弟子の遺骨、例えば、プラ・スィワリー・・・をお預かりしています。是非とも礼拝に来て頂きますよう、謹んでご案内申し上げます


仏陀の遺骨と仏陀の48人の弟子の遺骨 ”!?!?
今ひとつピンと来ません。紀元前に生誕され、紀元前に入滅された釈尊の御遺骨(仏舎利)が、今現在、バンコクの寺院で展示されている!? そんな・・・と眉に唾を付けたくなってしまいます。

とは言いつつも、騙されたつもりになって、ワット・ヤーン・ナーワーに出かけて見ました。寺門を入って北側(右手)の建物の入り口に、“ 仏陀の遺骨と仏陀の48人の弟子の遺骨 ”と書かれた白い天幕がチ゛ャオ・プラヤー河から吹き上がる風になびいています。


仏陀の遺骨と仏陀の48人の弟子の遺骨が展示されている一階

遺骨の展示会場は、誰でも自由に見ることが出来ます。会場時間は、09時から21時まで、入場料も駐車料もフリーです。さすがに寺院主催のイベントだけあって、なにもかもサービス満点です。

時間もたっぷりと有ります。それに、今になっても“ 仏陀の遺骨と仏陀の48人の弟子の遺骨 ”が信じられず、どうしても会場に入って拝礼する気持ちになれません。久しぶりに訪れた寺院なので、その気になるまで境内を散策することにしました。

タイ式と西洋建築がミックスされたこの北側の建物は、この寺院と関わりの深いラーマ三世の生誕200年を記念して1988年に建築されたものですが、本堂でも礼拝堂でもありません。寺院の管理事務とイベント・ホールの役割を併せ持った三階からなる建物です(上下写真)。いつ見ても、清掃管理が行き届いています。


建設途上でストップした高層マンションの真下にあります。

北側のラーマ三世の生誕200年記念の建物の向かい側(南側)に、文部省の福祉開発センター、政府の宗教局、ボースカウト財団などが入る三階建ての建物があり、隣接して数棟の僧坊が続きます。


福祉向上開発センタ、ボーイ・スカウト、宗教関連が入る事務棟

寺院建築は、東西を結ぶ線上に、東から本堂礼拝堂仏塔と並ぶのが普通だとされています。

現在、僕は仏塔の基盤の高さから境内を俯瞰しているのですが、この寺院の東側には中庭があるだけで本堂(布薩堂)の姿が見えません(下写真)。その理由を聞くと、第二次大戦中にチ゛ャオ・プラヤー河畔の造船所に駐留していた日本海軍に行われた空襲の巻き添えを食らって炎上、灰燼に帰してしまったのだそうです。


境内向かって左側:北側に建つラーマ三世の生誕200周年記念館
境内向かって右側:南側に建つ政府関係の事務棟
中央:庭園と駐車場
奥側:左側門が出口、中央門閉鎖、右側門が入り口

仏塔の上から西の方向へ視線を移すと、チ゛ャオ・プラヤー河畔と仏塔の間に、少しばかり古びた本堂(布薩堂)がありました。礼拝堂らしき建物は見当たりません。戦時中に東側にあった本堂が焼失したとはいえ、その場所を中庭として残し、寺院建設のルールに逆らって西側に本堂(布薩堂)を建てた理由は何なのでしょうか? 何方に聞いても???ばかりで分かりませんでした。


東側ではなく、西側に建てられた本堂(布薩堂)

次回BLOGに続きます。