《チャンタブリ県の旅の続きです》

カンボジア風の仏塔(プラ・プラーン)を見てから、この寺院がとても大事にしている古い礼拝堂へと誘われました。チョットばかりユニークな形をした純白の小さな仏塔が建つ池の向かい側に、小さな赤い屋根の建物が見えます。

赤い屋根が、お見せしたい礼拝堂です
鍵を持って来るまで、ここでお待ち下さい


アユッタヤ時代の中期(室町時代)に造営された釣鐘状の仏塔
画面の右奥に赤い屋根の小さな礼拝堂

彼を待つ間、池の中央に浮かぶ釣鐘状の仏塔(チェディー)を眺めていました。晴れたかと思えば、俄かに天空を雨雲が覆うような午後の天気でしたが、純白の仏塔が池の中に浮かぶ様は、なんとも清々しく、水面に映る影もたおやかな感じがします。

事務所から礼拝堂の鍵を持ってきた彼が、仏塔について説明をしてくれました。
アユッタヤ中期に造られた仏塔です
仏塔の高さは3m、光輝く陶器の飾りは全くありません
煉瓦は使用せず、自然の石灰で出来ています 』  
基壇部分は、四角形のターン・プラ・タクスィンになっています

ターン・プラ・タクスィン( ฐานประทักษิณ )の意味が分からない僕に、彼がが懇切丁寧に説明をしてくれました。例えば、今年の五月十九日の“ ウイサーカブーチャーの日 ”( วันวิสาขบุชา )などには、仏教信者が列をなして、合掌した手にハスの蕾と蝋燭を持ち、右周りに三回、仏塔の基壇部分の回廊(ターン・プラ・タクスィン)を周回するのだそうです。


(注)ウイサーカブーチャーとは、釈尊の生誕日、成道日(悟り)、入滅日を一度に祝う日です。日本では、それぞれ別の日に祝いますが、タイ仏教では全て同じ日としてお祝いします。

それでは、礼拝堂に御案内します
約100年以上前の礼拝堂ですが、今でも時々使用されています
堂内には本尊も安置されていますよ

彼が小さくて崩れそうな門をこじ開けると、かなり年代を経た見るからにちっぽけな四面体の木造建築が、ポツネントと建っています。屋根を見上げると、四方向に構成された切妻屋根が設けられ、その中央部に小さな木製の仏塔が乗せられています。



約100年前以上前の木造の切妻様式の礼拝堂

その昔は、四面体に設けられた切り妻屋根(チ゛ャトゥラムク จตุรมุข )の破風(ジュア จัว )には、この地方の職人が腕を振るった芸術的な彫刻が満遍なく彫られていたそうですが、今は微かにその形跡が残る程度です。

持参した鍵で、風雨に耐えて木目が浮き出た木戸をこじ開けると、暗闇だった礼拝堂内に午後の陽光が差し込みました。淀んだ少し黴臭い空気が微かに動く中に目を凝らすと、数体の仏像が並ぶ中央に、この礼拝堂の御本尊が鎮座ましましています。

何も分からない僕は、黙って彼の説明を聞くだけです。
彼 『 御本尊御の พระพุทธรูบปางบำเพ็ณทุกรกิริยา です
僕 『 ??? プラ・プッタ・ループ・パーン・バムペン・トゥゴーン・ギリヤー???
彼 『 分かりませんか? つまり、パーン・トラマーン ปางทรมาน の姿です
僕 『 なるほど、釈尊が苦難苦行された時の姿ですね
彼 『 そうですよ、どうぞ、御参りして下さい



礼拝堂内の御本尊とそれを取り巻く仏像と手前の仙人像

今まで、彼方此方の礼拝堂を訪れましたが、釈尊の苦難苦行の姿を御本尊にした礼拝堂は初めての経験です。それに、仙人像(ルースィー ฤๅษี )が釈尊をお守りするレイアウトがあったとは! 何もかも初めて見る異様な光景でした。

御本尊の全身は、信者が何年もかけて行った願掛けの金箔貼り(ピッツ・トーン ปิดทอง )で覆われ、尊顔は殆ど原型をとどめていません。現在、彼方此方の礼拝堂で見る御本尊は、ふっくらとした黄金の仏陀像が圧倒的に多い中、難業苦行に耐えて瞑想を続ける釈尊を御本尊とする珍しい礼拝堂を見せて頂きました。

釈尊が難業苦行する姿の像は、バンコクの大理石寺院、ナコンパトムの仏塔寺院、パタヤのプラヤイ寺院でも見たことがありますが、何れも御本尊ではなく、境内を飾る位置づけの仏像に過ぎませんでした。

パタヤのプラヤイ寺院で撮影した難業苦行の釈尊(プラ・プッタ・ループ・パーン・バムペン・トゥゴーン・ギリヤー พระพุทธรูบปางบำเพ็ณทุกรกิริยา )の金箔の貼られていない素顔(下写真)を見直して見ました。


パタヤのプラヤイ寺院の境内に鎮座まします難業苦行姿の釈尊

難業苦行をされている最中の釈尊は、悲壮な形相をされているのかと思いきや、よく見ると、モナリザの微笑みとは行かないまでも、微笑みを浮かべて瞑想されておられます。これこそ、東洋の男の微笑みではありませんか。

寺男さんに感謝の言葉を表して、御いとまをと思ったのですが、『 折角だから、もう一つ古い建築物があるので見て下さい 』 という誘いに乗ることにしました。何と! それは、古いタイ様式の火葬場( メン・マーイ เมรุไม้ )を保存(下写真)したものでした。


 
(左)保存されている古いタイ様式の火葬場 
(右)最近のタイ寺院境内の火葬場(写真はプラプラデンの寺院の火葬場)

四本の丸柱に支えらえた火葬場(メン・マーイ)の尖った屋根は、ヒンドゥーの神々が住む須弥山(しゅみせん)を意味し、屋根下の四隅の台上(サム・サーン สำซ่าง )で僧侶が読経をする中、死者は須弥山の屋根の真下で火葬される習慣がありました。

彼の説明を聞きながら、1993年だったと思いますが、ラオス・ビエンチャンの取引先の社長の弟さんが病死された時の火葬儀式に出席した時のことを想い出しました。

社長の弟さんの広大な自宅の庭の中央に、この建物によく似たものが態々建てられ、薪で覆われた棺桶が須弥山を表す屋根の真下に置かれていました。会葬者は、その直ぐ側に張られたテントの中に坐して、火葬の様子を参観します。

当日の僕は、何と!最初に薪に火を付ける役割でした。僕が火を点火すると、数百人の参観者が全員行列を成して火付けの儀式を続けるのです。

勢いが増した火が燃えあがり、四本の柱に支えられた屋根に引火するのでは!とヒヤヒヤしましたが、翌朝には何事も無く火葬の儀式は終了していました。

そんな昔の想い出話を彼に語ると、『 良い経験をされましたね 』、『 タイでは見られない儀式となりました 』と言いながら、直ぐ側に建てられた金綺羅金様式の最新の火葬場を指差して教えてくれました。

タイの殆どの寺院は、今も昔も、自前の火葬場を境内に保有しています。日本も昔はそうだったのでしょうかね?