《チャンタブリ県の続きです》

予定外の果樹園見学を終えて、現在地が良く分からないまま、北に向かえば三号線に出るだろうと検討をつけて、田舎の道を走っていると、見るからに古そうな要塞の城壁と哨戒所が忽然と現れました。

車を停めて地図を調べるのですが、正確な現在地が掴めていないために、この要塞の名前を発見することが出来ません。しかし、遺跡好きの僕としては、早速、ハンドルを切って、要塞の門へと向かいました。


忽然と現れた古い要塞の城壁

要塞の門の直ぐ側に、真っ赤に燃える孔雀の尾羽と呼ばれるハーン・ノック・ユン(タイ語名)が咲き誇っています。この花の正式名は“ 鳳凰木 ”ですが、俗称の“ 火炎樹 ”の名前の方が広く知られています。(母屋を取られた本物の火炎樹が可哀相!)

要塞の門を兼ねた哨戒所の下は、車に乗ったまま入ることができます。城壁と哨戒所は、赤い焼き煉瓦を積み上げて構築されていました。哨戒所は煉瓦の上に、補修セメントが張られていますが、昔は、白い漆喰で塗り固められていたのだろうと思います。


(左)今が盛と咲き乱れる鳳凰木の赤い花  (右)古き時代の要塞の哨戒所

哨戒所を通って中に入ると、赤い土が広がる空き地になっているのですが、取り立てて見るべき遺跡も見当たりません。後ろを振り返ると、たった今、通過して来た哨戒所と城壁に上がる崩れかけた石段があります。早速、上って見ることにしました。


城内から見た要塞の哨戒所と城壁

城壁の上から見遣ると、現在は、高台の斜面に沿って繁茂する高木の常緑樹が視界を遮っていますが、この要塞が高台に築城されていることが良く分かります。この要塞が現役だった頃は、きっと、周囲の木々は、完全に刈り込まれ、チャンタブリの町タイ湾の河口を一望に収めることが出来たに相違ありません。


火炎樹や つわものどもが ゆめの跡 (芭蕉からの無断パクリ編纂)

後で分かったのですが、230ライ( 368,000 ㎡ )の広さを持つ四角形の要塞は、八箇所の門を有し、城壁の上には多くの大砲が備えられていたのです。見るからに性能の悪そうな大砲の砲身を見ていると、生まれ故郷の長州の砲台に備えられていた“ 役立たずの大砲 ”を想い出してしまいました。


四角形の要塞の城壁の上に残る西暦1834年の頃の大砲

城壁から城内に下りると、先ほどまで、その辺りをブラ・ブラしていた数人のタイ人観光客の姿も見えなくなり、城内に残る人といえば、飲み物を売る屋台の小母さんだけです。

僕 『 この要塞は、いつごろ建設されたのですか?
女 『 知らないの
僕 『 何のために建設されたの?
女 『 分からないの。あちらの説明看板があるから見て

小母さんの指差す方向を見ると、なるほど、古びた大きな説明看板(下右写真)があります。高さは約2.5m、幅は約3mあるのですが、説明文の半分は、陽光と風雨に侵されて消えかかり、判読するのに一苦労しました。(クリックすると酷い状態がお分かり頂けます)

幸いにも、僕は遠視(実は老眼)ですので、チョット時間は掛かりましたが、漸くにして、正体不明だった要塞の歴史的由来を把握することができました。年代と少しばかりの補足については、バンコクに戻ってから、手元の史書で確認しました。(下記ご参照)


(左)現王朝のラーマ三世王(1788年-1851年) (右)要塞の歴史を説明するタイ語板

ベトナム戦争と言えば、アメリカと北ベトナムの争いが何といっても強烈ですが、ラオスとカンボジアの争奪を巡って戦ったタイとベトナムの覇権闘争(下記御参照)も、我々が忘れてはならない過去の傷跡だと思います。それでは、簡単な年譜形式の記事を御覧下さい。

1826年:
タイの属国だったビエンチャン王国のセータティラート三世王(通称・アヌウォン王)は、タイからの独立を図ってタイ東北のナコン・ラーチャシマを占拠。そこを拠点にして、ラーマ三世王が統治するバンコク攻略を狙うが、ナコン・ラーチャシマの長官の奥さんだったヤーモーの策略によって敗北。そのままべトナムへと逃れて亡命する。

1828年:
アヌウォン王は、ベトナムの支援を受けてビエンチャンに戻って再起するが、タイのラーマ三世王に捕らえられ、バンコクへ送られた後に憤死。ビエンチャン王国は廃絶される。これを契機に、アヌウォン王を支えていたベトナムとタイの関係が極端に悪化する。

1833年:
カンボジアの宋主権を巡って、遂に、タイとベトナムが衝突、武力闘争が始まる。

1834年:
ラーマ三世王は、対ベトナム戦争の前線吉として、急遽、チャンタブリの地に新要塞の“ カーイ・ヌーン・ウォン ” ค่ายเนินวง (丘陵を包囲する陣営)を建設。今回、僕が、偶然に訪れた要塞が、その要塞だったという訳です

その後、1837年~1845年にかけて、タイとベトナム間で激しい武力闘争が行われるが、最終的には、タイがビエンチャンを直接支配。さらに、ルアン・プラバンとチャンパーサックを朝貢国とし、カンボジアは、タイとベトナム両国の朝貢国となることで決着します。

此処までの推移を見ると、タイのワン・サイド・ゲームのように見えますが・・・1893年~1904年にかけて、この要塞に守られたチャンタブリは、僅か600人のフランス兵の手によって占領されることになるのです。

そして、小さな町のチャンタブリを取り返すために、メコン右岸のカンボジア・サイヤブリー州(1904年)、更に、カンボジアのバッタバン、シェムリアップ、シーソーホンの四州をもフランスに割譲(1907年)する破目に陥ることになります。

“ 地球上の懲りない面々 ”の引き起こした歴史上の汚点が、この小さなチャンタブリの町に残されていました。