バンコクの隣県のサムット・プラカーンにある古代都市公園(ムアン・ボラーン)内に、一隻のタイ・ジャンク船(タイの外国航路船)が再現されていました。

このタイ・ジャンク船は、アユッタヤー王朝の中期(江戸時代初期)から現王朝のラッタナ・コースィンの初期(江戸時代後期)にかけて、タイと東南アジア諸国や日本(平戸、出島)の間を往復したタイ製の大型帆船です。



アユッタヤー時代のタイの外国航路船(於:古代都市公園)

日本の長崎とアユッタヤ-王朝の間を往復した日本の御朱印船は、当初は長崎近辺で造船されていたようですが、次第に、チーク材で造船された良質なタイ製の船体に日本式の艤装を施した折衷船が増えていったようです。

当時のタイの大型帆船の勇姿を眺めながら、風と艪、そして曳き船を利用してチ゛ャオ・プラヤー河を遡行した航跡を思い浮かべてみました。

海外からアユッタヤー王朝を目指した貿易船は、タイ湾からチ゛ャオ・プラヤー河に入り、約40km遡行した地点にある第一関所のバーン・コーク บางกอก(アムロ・タマゴの繁茂する水辺の村)に投錨して税関検査を受けることになります。


当時のバーン・コークのイメージ(?)(於:古代都市公園)

昨日のBLOGでも触れましたが、“ バーン・コーク ”(上写真)の地名の意味は、“ アムロ・タマゴの樹の生える水辺の村 ” です。 史料によると、ポルトガル人が外国人として始めて訪れたバーン・コークは、アムロ・タマゴの樹(トン・マ・コーク ต้นมะกอก )が繁茂するだけの貧弱な部落だったようです。当初の村名はバーン・マ・コーク、それが短絡化されて、バーン・コークとなったという説もあります。


当時のバーン・コークに繁茂していたアムロタマゴの樹と果実 & 果実の漬物

現在のタイの正式首都名は、タイ語ではクルンテープ・マハー・ナコン กรุงเทพมหานคร ですが、BANGKOK の呼称は、ポルトガル人によって受け継がれて来た大昔の寒村の名前が英語名として踏襲されたのだと思います。従って、タイ人同士の間の会話や官公庁の中で、古い寒村の名前に過ぎなかったBANGKOK の呼称が使用されることは先ずありません。

現在のタイの首都・クルンテープ・マハー・ナコンのトンブリ地区内に、昔のバーン・コーク(水辺の村)があった場所が残されています(下写真)。その地区の名前は、バーン・コーク・ヤーイ(下の写真)とバーン・コーク・ノーイです。チ゛ャオ・プラヤー河の旧本流の中に残る二つの地域では、今でも、昔ながらの水上生活が営まれています(下写真)。


旧チ゛ャオ・プラヤー河の本流の中に残る現在のバーン・コーク地区

話を元に戻しましょう。
鄙びた小村だったバーン・コーク は、タイの植民地化や利権獲得を目論むポルトガル、オランダ、英国、フランスによる侵攻を防ぎ止める拠点としての重要性が増し、堅固な要塞のポム・ウイチャイ・プラスィッツ ป้อมวิไชยประสิทธิ์ (下写真) が築かれます。時代の推移とともに、幾度となく改築が行われますが、現在の白亜の要塞は、後世のトンブリ王朝からラッタナー・コースィン王朝初期(明治時代初期)にかけての構築物を再現したものです。


現時もバーン・コーク地区に保存されているウイチャイ・プラスィッツ要塞

尚、上の写真の右側に写っているワット・アルン วัดอรุณ (暁の寺院)のクメール様式の玉蜀黍状の尖塔は、後世のトンブリ王朝時代に建立されたもので、アユッタヤー時代には存在していません。記録によると、小さな本堂と礼拝堂を備えたちっぽけな寺院があるだけの寂しい場所だったようです。

余談ですが、タイに来て間もない頃、三島由紀夫の小説、『 豊穣の海(第三巻)暁の寺 』 の単行本を小脇に抱えて、ワット・アルン วัดอรุณ (暁の寺院)を訪れたことがあります。僕にとって難解な輪廻転生を題材にした小説ですが、玉蜀黍状の尖塔の階上で紐解けば、ひょっとしたら理解度が増すかもしれないという淡い望みを抱いたのですが・・・儚い望みでした。

第一関所のバーン・コークから、チ゛ャオ・プラヤー河を北に向けて遡行すること約3日で、第二関所のバーン・サイ(ガジュマルの繁茂する水辺の村)に到着します(下左写真)。

1624年当時、チ゛ャオ・プラヤー河の関所の管理隊長をしていた日本人(山田仁左衛門長政と比定されている)が、アユッタヤーを攻略しようとしたスペイン艦隊を完膚なきまでに打ち破った水域としても知られています。この時の功績を国王から賞賛された日本人の関所管理隊長は、その後、トントン拍子の出世を遂げ、外国人としては異例の前衛部隊最高司令官(大臣格)の地位を極めることになります。

バーンサイ(下左写真)で第2回目の入国審査を受けた貿易船は、最終目的地のアユッタヤー王宮のあるポイペッツ要塞港(下右写真)の直ぐ手前にある日本人居住区とポルトガル人居住区を挟んだ水面の第一関所で、揚げ荷の最終検査を受けることになります。


左:首都港を守る第二関所が設けられていたバーン・サイ
右:フランス式砲台のあったポイペッツ要塞港の遺跡 

当時の中国史料によると、タイ湾に面した河口から、第一関所までの約140kmの行程を、風力と人力による櫓漕ぎ、そして曳き船によって、なんと九日間もかけて北上したというのですから、如何に難行苦行の遡航だったかということが推し測れます。

その後、日本からの御朱印船は、徳川幕府の鎖国政策によって廃止(1633年)となります。それにともない、タイ・ジャンク船も自国の国旗を掲揚して長崎に入港することが出来なくなり、中国の傭船となって細々と命脈を保つのですが、それも、いつしか先細りとなり、歴史の頁から消えてしまいます。

そして、3000人前後もいた在住日本人も、いつしかバラバラとなり、タイ人と同化する形をとりながら埋没して行くことになるのです。