バンコクの隣県のサムット・プラカーンにあるムアン・ボラーン(古代都市公園)を訪ねた時に、アユッタヤ王朝時代の“ 南伝大蔵経 ”84,000巻(注)を入れていたという保存庫を見ることが出来ました。
遺跡を訪ねることが大好きな僕ですが、アユッタヤー時代の木造の保存庫を見るのは初めての経験です。たまには、このような無名の遺跡を見るのも良いものです。
注:南伝大蔵経とは、“三蔵”trai-pidok ไตรปิฎก (律蔵、経蔵、論蔵)とそれ等の注釈書を含めたもの。

南伝大蔵経 84,000巻の保存庫
サムット・ソンクラム県のワット・ヤイ(寺院)の片隅で廃れていたこの保存庫を、貴重な後世への教育遺産として保存するために、この場所に運び込んで修理・復元したのだとか。このような木造の三蔵の保存庫は、今では、此処でしか見ることが出来ないそうです。
この三蔵の保存庫は、アユッタヤ王朝時代の建築様式です。人工的に作った池の中に長い丸柱を建て、その上に保存庫を設え、火に炙って切り揃えたタラバ椰子の葉(ใบลาน)に鉄筆で文字を刻んだ経典を入れて保存していました。蟻や白蟻の被害から守る方式としては、これに優るものは無かったのでしょう。


外壁に金箔入りのテンペラ画が描かれていた三蔵の保存庫
記録によると、保存庫の木製の外壁には、仏陀の日々の行動が金箔張りのテンペラ画で描かれていたようですが、今は褪せて何も見えず、風雨に耐えた木肌だけが寂しく残るだけです。
チョット面白いのは、経典保存庫の丸柱が立つ池の表面に、“ 大鬼ハス ” が一面に丸い葉っぱを浮かべていることです。ご存知のように、大鬼ハスの大きな葉っぱの表面に幾つもある鰐皮に似た突起模様の中には、浮力体となる空気室があり、20kg前後の子供が乗っても沈まないと言われています。


ハスの蕾が葉っぱを突き抜けて出て来ることもある
だとすると、“ ネズミ ”が大鬼ハスから丸柱を伝わって経典の保存庫に侵入することは簡単に出来ます。“ 蟻や白蟻 ”はもっと簡単に保存庫に入ることが出来るに違いありません。つまり、城を守るべきお堀に、簡易橋が常設されているようなものです。従って、アユッタヤー時代には、この池の表面には、外敵の侵入を容易にさせる大鬼ハスは無かったに違いありません。


三蔵の保存庫の下の池に浮かぶ大鬼ハス
ところで、“ 大鬼ハス ”のことを、タイでは“ ブア・グラダン ” บัวกระดัง と呼びます。多分、“ 板状になったハスの葉 ”を意味する言葉だと思うのですが、日本語では何故に“鬼” (ヤック ยักษ์ )なの? と質問されて困ってしまいました。 帰宅して調べたら、鬼のような棘があるので“ 鬼 ”なのだそうです。
アユッタヤ王朝と日本の朱印船時代(江戸時代初期)に興味を持つ僕の悩みは、日本語や英語で書かれた詳しい史料が極めて少ないことです。しかも、その出典の殆どは、オランダ東インド会社が残した史料の翻訳というのが実態です。
然らば、タイ語の史料を読むしかないと思い、大学の社会学部歴史学科に学んだのですが、豈図らんや、タイ語の史料すらも乏しいことが分かりました。その原因は、アユッタヤ王朝が隣国のビルマとの戦争で完膚なきまでに攻略され、宮殿や寺院の書類保管庫に保存されていた416年に渡るアユッタヤーの史料の殆どが灰燼に帰したからだと言われています。
このような保存庫では、“ 蟻、白蟻、ネズミ ”は防げたとしても、ビルマ軍の徹底的な破壊活動には、一溜まりなかったことでしょうね。
それにしても、ビルマ軍さん、後世のためにも、歴史資料だけは残して置いて欲しかった・・・
遺跡を訪ねることが大好きな僕ですが、アユッタヤー時代の木造の保存庫を見るのは初めての経験です。たまには、このような無名の遺跡を見るのも良いものです。
注:南伝大蔵経とは、“三蔵”trai-pidok ไตรปิฎก (律蔵、経蔵、論蔵)とそれ等の注釈書を含めたもの。

南伝大蔵経 84,000巻の保存庫
サムット・ソンクラム県のワット・ヤイ(寺院)の片隅で廃れていたこの保存庫を、貴重な後世への教育遺産として保存するために、この場所に運び込んで修理・復元したのだとか。このような木造の三蔵の保存庫は、今では、此処でしか見ることが出来ないそうです。
この三蔵の保存庫は、アユッタヤ王朝時代の建築様式です。人工的に作った池の中に長い丸柱を建て、その上に保存庫を設え、火に炙って切り揃えたタラバ椰子の葉(ใบลาน)に鉄筆で文字を刻んだ経典を入れて保存していました。蟻や白蟻の被害から守る方式としては、これに優るものは無かったのでしょう。


外壁に金箔入りのテンペラ画が描かれていた三蔵の保存庫
記録によると、保存庫の木製の外壁には、仏陀の日々の行動が金箔張りのテンペラ画で描かれていたようですが、今は褪せて何も見えず、風雨に耐えた木肌だけが寂しく残るだけです。
チョット面白いのは、経典保存庫の丸柱が立つ池の表面に、“ 大鬼ハス ” が一面に丸い葉っぱを浮かべていることです。ご存知のように、大鬼ハスの大きな葉っぱの表面に幾つもある鰐皮に似た突起模様の中には、浮力体となる空気室があり、20kg前後の子供が乗っても沈まないと言われています。


ハスの蕾が葉っぱを突き抜けて出て来ることもある
だとすると、“ ネズミ ”が大鬼ハスから丸柱を伝わって経典の保存庫に侵入することは簡単に出来ます。“ 蟻や白蟻 ”はもっと簡単に保存庫に入ることが出来るに違いありません。つまり、城を守るべきお堀に、簡易橋が常設されているようなものです。従って、アユッタヤー時代には、この池の表面には、外敵の侵入を容易にさせる大鬼ハスは無かったに違いありません。


三蔵の保存庫の下の池に浮かぶ大鬼ハス
ところで、“ 大鬼ハス ”のことを、タイでは“ ブア・グラダン ” บัวกระดัง と呼びます。多分、“ 板状になったハスの葉 ”を意味する言葉だと思うのですが、日本語では何故に“鬼” (ヤック ยักษ์ )なの? と質問されて困ってしまいました。 帰宅して調べたら、鬼のような棘があるので“ 鬼 ”なのだそうです。
アユッタヤ王朝と日本の朱印船時代(江戸時代初期)に興味を持つ僕の悩みは、日本語や英語で書かれた詳しい史料が極めて少ないことです。しかも、その出典の殆どは、オランダ東インド会社が残した史料の翻訳というのが実態です。
然らば、タイ語の史料を読むしかないと思い、大学の社会学部歴史学科に学んだのですが、豈図らんや、タイ語の史料すらも乏しいことが分かりました。その原因は、アユッタヤ王朝が隣国のビルマとの戦争で完膚なきまでに攻略され、宮殿や寺院の書類保管庫に保存されていた416年に渡るアユッタヤーの史料の殆どが灰燼に帰したからだと言われています。
このような保存庫では、“ 蟻、白蟻、ネズミ ”は防げたとしても、ビルマ軍の徹底的な破壊活動には、一溜まりなかったことでしょうね。
それにしても、ビルマ軍さん、後世のためにも、歴史資料だけは残して置いて欲しかった・・・