《パタヤーの旅の続きです》
パタヤー近辺の思いつき小旅行を終えてバンコクに戻る途中、チョンブリの町で一休みすることにしました。僕がタイに移り住んで間もない頃、購入したばかりの新車を運転して、おっかなびっくりで訪れた町の一つがチョンブリなので、なんとなく親しみのある町なのです。
最近は、チョンブリの海岸で建築中の木造城郭寺院(サッジャタム)見学の折に訪れただけで、それ以来、とんと御無沙汰しています。見るべき観光地も分からず、どうしたものかと思案にくれていると、休憩所の小母さんが、“ワット・ヤイ・インターラーム・プラ・アーラーム・ルアン”วัดไหญ่อินทารามพระอารามหลวง という寺院を薦めてくれました。

ヤイ・インターラーム・プラ・アーラーム・ルアン寺院の正門
小母さんの話によると、この寺院はアユッタヤー王朝のナカリン・タラー・ティ・ラート第六世王(在位1409年-1424)によって建立された由緒ある寺院だと言うのですが、今まで一度も聞いたこともないし、観光冊子などの類でお目にかかったこともありません。
余り気乗りがしない表情の僕に、小母さんが更にプッシュをかけて来ました。
彼女 『 この寺には遊行仏があるよ 』
僕 『 それなら、見てみたいな! 』
彼女 『 大きな涅槃仏もあるよ 』
僕 『 それも見てみたいな! 』
“遊行仏”は、僕のBLOGでも数回採り上げたことがありますが、僕が最も好きなスタイルの仏像です。タイ人から遊行仏のある寺院などの名前を聞けば、その場所がどんなに遠くても、必ず訪れて拝観して来たものです。言わば、いい歳をして、“ 遊行仏の追っ駆け”という訳です。
小母さんの手書き地図を頼りに、迷路のようなチョンブリの路地を車で彷徨うこと10分、遊行仏と涅槃仏があるという寺院に辿り着きました。寺院の門前に、苦虫を噛み潰したような形相をした男性の坐像があります。此の方が、この寺院を建立したアユッタヤー王朝の第六世王かなと思いつつ記入された氏名を見ると・・・アユッタヤーを占領したビルマ軍団を追い出したタクスイン将軍、つまり、その後、トンブリ王朝を興したタクスィン王の銅像でした。

トンブリ王朝のタクスィン王の銅像
この寺院の僧侶に、トンブリ王朝のタクスィン王との関係を聞いて見ました。
アユッタヤー王朝がビルマに攻略(1767年)された後に、再興を図るために一時的にラヨーンに撤退したタクスィン将軍が、その途中に休憩のために立ち寄った寺院なのだとか。トンブリ王朝のタクスィン王が、アユッタヤ王朝の将軍だった頃の足跡は、北西部のターク県や東南部のラヨーン県に多いのですが、チョンブリの町にもあることを初めて知りました。
地元の人で賑わう寺院の礼拝堂と離れた場所に、人の姿の無い小さな四角形の仏堂がありました。仏堂の周囲は回廊になっていて、その裏回廊の一辺のスペースに、タイの彼方此方の寺院で見かける黄金色の “涅槃仏” が横たわっています。ご存知の如く、病に倒れた仏陀が、此の世から彼の世に旅立つ時の姿です。


この寺院で見たやや太っちょの黄金色の涅槃仏
日本語では、涅槃像のことを、“寝釈迦”、“ねぼとけ”などと表現しますが、タイ人は、“プラ・プッタ・ループ・パーン・サイヤー” พระพุทธรูปปางไสยา とか、“プラ・サイヤート” พระไสยาสน์ と呼びます。“サイヤー” ไสยา は、睡眠とか寝床の名詞、“サイヤート” は動詞ですが、いずれも王室や高僧が使う難しくて高尚な言葉です。難しい言葉の分からない子供は、“眠る”の庶民言葉である“ノーン”を使って、可愛く “プラ・ノーン” พระน้อน と呼んだりします。
僕も彼方此方の寺院で “寝釈迦” を見て来ましたが、最も印象に強く残ったのは、タイ北部のプレー県の “ワット・プラタート・ストーン・モンコーン・キーリー” で見た “寝釈迦” です。インドやミャンマー系の影響だと思うのですが、なんとも“艶っぽい寝釈迦” の姿を見て感動すら覚えてしまいました。


タイ北部プレー県で拝顔した艶っぽい寝釈迦
話を元に戻しましょう。
太っちょの黄金の “寝釈迦” と向き合うかのように、比較的小振りの立像の “遊行仏” が安置してありました。世界の仏教界における仏陀の像と言えば、立像、坐像、半伽思惟像(腰掛け像)、涅槃像などの静止した像が知られていますが、歩く動的な様子を表現した “遊行仏” はタイのスコータイ王朝(鎌倉時代)が創造した独創的な形だと言われています。


この寺院で見た小振りの遊行仏
タイ語では、“遊行仏” のことを、“プラ・プッタ・ループ・パーン・リーラー” พระพุทธรูปปางลีลา、或いは、“プラ・リーラー” พระลีลาと呼びます。“リーラー” とは “優雅に歩く” という意味ですが、時代を経るに従い、“遊行仏の優雅に歩く姿” に変化が生じて来たようです。
僕の御気に入りは、なんと言っても、スコータイ様式の “遊行仏” です。このスタイルを、スコータイの野外遺跡公園で初めて見た時は、理由もなく感動してしまいました。

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僕のお気にリのスコータイの遊行仏
その後、“遊行仏の追っ駆け”をすることになるのですが、今でもスコータイ様式の遊行仏に惚れ込んでいます。スコータイ様式に次いで有名な遊行仏は、タイ美術を世界に紹介したイタリア人彫刻家のビラスリ氏(故人)がタイの芸術大学の学長時代に作製した遊行仏だと言われています。
現在、ビラスリ氏の作品を拡大して製作された巨大な遊行仏を、プッタモントン仏教公園で見ることが出来ます。彼の作品の容姿とスコータイ様式との違いは、素人の僕が見ても直ぐに分かります。


イタリア人彫刻家のビラスリ氏の遊行仏
外国人観光客の多くは、ビラスリ氏の表した西欧的なスタイルの遊行仏を好むと聞きましたが・・・僕は、見るからに美しい姿態で、衆生済度の第一歩を、今まさに優雅に踏み出されようとする仏陀を表現したスコータイ様式に嵌まっています。
皆さんは西欧風遊行仏がお好きですか? それともスコータイが創造した遊行仏ですか?
パタヤー近辺の思いつき小旅行を終えてバンコクに戻る途中、チョンブリの町で一休みすることにしました。僕がタイに移り住んで間もない頃、購入したばかりの新車を運転して、おっかなびっくりで訪れた町の一つがチョンブリなので、なんとなく親しみのある町なのです。
最近は、チョンブリの海岸で建築中の木造城郭寺院(サッジャタム)見学の折に訪れただけで、それ以来、とんと御無沙汰しています。見るべき観光地も分からず、どうしたものかと思案にくれていると、休憩所の小母さんが、“ワット・ヤイ・インターラーム・プラ・アーラーム・ルアン”วัดไหญ่อินทารามพระอารามหลวง という寺院を薦めてくれました。

ヤイ・インターラーム・プラ・アーラーム・ルアン寺院の正門
小母さんの話によると、この寺院はアユッタヤー王朝のナカリン・タラー・ティ・ラート第六世王(在位1409年-1424)によって建立された由緒ある寺院だと言うのですが、今まで一度も聞いたこともないし、観光冊子などの類でお目にかかったこともありません。
余り気乗りがしない表情の僕に、小母さんが更にプッシュをかけて来ました。
彼女 『 この寺には遊行仏があるよ 』
僕 『 それなら、見てみたいな! 』
彼女 『 大きな涅槃仏もあるよ 』
僕 『 それも見てみたいな! 』
“遊行仏”は、僕のBLOGでも数回採り上げたことがありますが、僕が最も好きなスタイルの仏像です。タイ人から遊行仏のある寺院などの名前を聞けば、その場所がどんなに遠くても、必ず訪れて拝観して来たものです。言わば、いい歳をして、“ 遊行仏の追っ駆け”という訳です。
小母さんの手書き地図を頼りに、迷路のようなチョンブリの路地を車で彷徨うこと10分、遊行仏と涅槃仏があるという寺院に辿り着きました。寺院の門前に、苦虫を噛み潰したような形相をした男性の坐像があります。此の方が、この寺院を建立したアユッタヤー王朝の第六世王かなと思いつつ記入された氏名を見ると・・・アユッタヤーを占領したビルマ軍団を追い出したタクスイン将軍、つまり、その後、トンブリ王朝を興したタクスィン王の銅像でした。

トンブリ王朝のタクスィン王の銅像
この寺院の僧侶に、トンブリ王朝のタクスィン王との関係を聞いて見ました。
アユッタヤー王朝がビルマに攻略(1767年)された後に、再興を図るために一時的にラヨーンに撤退したタクスィン将軍が、その途中に休憩のために立ち寄った寺院なのだとか。トンブリ王朝のタクスィン王が、アユッタヤ王朝の将軍だった頃の足跡は、北西部のターク県や東南部のラヨーン県に多いのですが、チョンブリの町にもあることを初めて知りました。
地元の人で賑わう寺院の礼拝堂と離れた場所に、人の姿の無い小さな四角形の仏堂がありました。仏堂の周囲は回廊になっていて、その裏回廊の一辺のスペースに、タイの彼方此方の寺院で見かける黄金色の “涅槃仏” が横たわっています。ご存知の如く、病に倒れた仏陀が、此の世から彼の世に旅立つ時の姿です。


この寺院で見たやや太っちょの黄金色の涅槃仏
日本語では、涅槃像のことを、“寝釈迦”、“ねぼとけ”などと表現しますが、タイ人は、“プラ・プッタ・ループ・パーン・サイヤー” พระพุทธรูปปางไสยา とか、“プラ・サイヤート” พระไสยาสน์ と呼びます。“サイヤー” ไสยา は、睡眠とか寝床の名詞、“サイヤート” は動詞ですが、いずれも王室や高僧が使う難しくて高尚な言葉です。難しい言葉の分からない子供は、“眠る”の庶民言葉である“ノーン”を使って、可愛く “プラ・ノーン” พระน้อน と呼んだりします。
僕も彼方此方の寺院で “寝釈迦” を見て来ましたが、最も印象に強く残ったのは、タイ北部のプレー県の “ワット・プラタート・ストーン・モンコーン・キーリー” で見た “寝釈迦” です。インドやミャンマー系の影響だと思うのですが、なんとも“艶っぽい寝釈迦” の姿を見て感動すら覚えてしまいました。


タイ北部プレー県で拝顔した艶っぽい寝釈迦
話を元に戻しましょう。
太っちょの黄金の “寝釈迦” と向き合うかのように、比較的小振りの立像の “遊行仏” が安置してありました。世界の仏教界における仏陀の像と言えば、立像、坐像、半伽思惟像(腰掛け像)、涅槃像などの静止した像が知られていますが、歩く動的な様子を表現した “遊行仏” はタイのスコータイ王朝(鎌倉時代)が創造した独創的な形だと言われています。


この寺院で見た小振りの遊行仏
タイ語では、“遊行仏” のことを、“プラ・プッタ・ループ・パーン・リーラー” พระพุทธรูปปางลีลา、或いは、“プラ・リーラー” พระลีลาと呼びます。“リーラー” とは “優雅に歩く” という意味ですが、時代を経るに従い、“遊行仏の優雅に歩く姿” に変化が生じて来たようです。
僕の御気に入りは、なんと言っても、スコータイ様式の “遊行仏” です。このスタイルを、スコータイの野外遺跡公園で初めて見た時は、理由もなく感動してしまいました。


僕のお気にリのスコータイの遊行仏
その後、“遊行仏の追っ駆け”をすることになるのですが、今でもスコータイ様式の遊行仏に惚れ込んでいます。スコータイ様式に次いで有名な遊行仏は、タイ美術を世界に紹介したイタリア人彫刻家のビラスリ氏(故人)がタイの芸術大学の学長時代に作製した遊行仏だと言われています。
現在、ビラスリ氏の作品を拡大して製作された巨大な遊行仏を、プッタモントン仏教公園で見ることが出来ます。彼の作品の容姿とスコータイ様式との違いは、素人の僕が見ても直ぐに分かります。


イタリア人彫刻家のビラスリ氏の遊行仏
外国人観光客の多くは、ビラスリ氏の表した西欧的なスタイルの遊行仏を好むと聞きましたが・・・僕は、見るからに美しい姿態で、衆生済度の第一歩を、今まさに優雅に踏み出されようとする仏陀を表現したスコータイ様式に嵌まっています。
皆さんは西欧風遊行仏がお好きですか? それともスコータイが創造した遊行仏ですか?