バンコクを訪れたゴルフ好きの後輩2名(日本人)と酒席を共にしました。
風雅和歌集ではありませんが、『ひとしきり吹き乱しつる風はやみて・・・』、後輩が次から次と語る“仕事の話”、“ゴルフの楽しくも悔しい話”、“タイ女性の話”・・・など等が大方終わって、明日の予定の話になりました。
友A 『明日は何処に行けば良いですか?』
僕 『行きたい場所があれば案内するよ』
友A 『エッツ!良いのですか?』
僕 『何に興味があるの?』
友A 『日本人町の遺跡があると聞きました』
僕 『遺跡としては何もないけど・・・』
江戸時代初期に栄えた日本人町は、チ゛ャオ・プラヤー川に沿って南北に500m、河畔から東に200m、約3万坪余りの敷地面積があったとされています。
それまで黙って聞いていた、後輩Aよりもチョット年嵩の後輩Bが、僕の杯にお湯割り焼酎を注ぎながら・・・
友B 『アユッタヤーの日本人町は捏造だと聞きましたが?』
僕 『捏造? どう言う意味?』
友B 『日本人観光客用の為に態々拵えた村だとか・・・』
僕 『日本人観光客対象の場所には違いないけど・・・』
友B 『やはり捏造ですか!?』
僕 『誰から聞いたの?』
友B 『何かで読みました』
対岸から見た日本人町の跡地
友A 『捏造だって良いから日本人町に行こうヨ!』
友B 『勿論!行くさ!』
『山田仁左衛門長政』の非実在説が喧しいのは、耳に蛸ができるくらい聞いていますが、『日本人村の捏造論』まで囁かれているとは!チョット意外でした。
友B 『先輩は、捏造だと思わないのですか?』
僕 『全く考えたことも無いよ』
友A 『兎にも角にも、アユッタヤーへ行きましょう』
友B 『この話はこれで終わり!』
友A 『今からタイのカラオケ探訪に行きましょう!』
カラオケ店に腰を降ろした御両人、堰を切ったように日本の演歌を歌い始め、止まるところがありません。夜はアットいう間に更け、僕が自宅のベッドに倒れ込んだのは午前二時を回っていました。
現在の日本人村?日本人御用達のカラオケ街
翌朝10時半、しょぼしょぼ目の二名をホテルでピック・アップ。一路アユッタヤーに向かいました。二日酔い気味の御両人はといえば、シートを倒してグッスリ寝込んでいます。
道程の半分を過ぎた頃になってやおら目覚めた二人、冷えた真水を一気に飲み干すと、嘘見たいに元気回復!本当に御若い!羨ましい限りです。
早速、昨晩の日本人町の真贋論争を再燃させ、運転中の僕に質問を浴びせ始めます。
友B 『日本人町が発掘されたのはいつですか?』
日本人町の石碑 日本人町の想像模型
僕は、彼の質問に要点だけを答えつつ、我がもの顔で走行するオートバイを左右にかわしながら慎重に車を走らせます。
『日本人町が発掘されたのは1933年(昭和8年)』
『発掘者は日本人の南方史研究家の『東恩納寛淳』(ひがしおんなかんじゅ)
『出土品は、薩摩焼の観世菩薩像 日本刀、鎧具足破片、鍋釜、包丁等多数』
『場所はポルトガル・キャンプの対岸。オランダ商館の南側』
『1938年(昭和13年)、旧日本海軍練習艦隊が当地に長政神社を建立』
友B 『旧日本軍が絡んでいるのですか? やはり捏造かも・・・』
アユッタヤーの日本人町の場所を決めたのは旧日本海軍ではなく、民間の歴史家です。日本海軍は、歴史家や民間の要請に便乗する形で、『山田長政神社』を建立。南進の英雄に祀り上げたという訳です。
旧日本軍が絡んだと言うだけの理由で捏造論が蔓延ってしまうのでは、この地で数奇の人生を終えた古(いにしえ)の日本人の御魂は浮かばれません。
などと問答している内に、正午少し前に旧アユッタヤー港の河畔に到着です。まだ正午前なのですが、休憩と昼食を兼ねて河畔のタイ料理店に入ることにしました。
後輩二名は冷えたビールの迎え酒で生き返り、運転手役の僕は、冷めたくて甘い『テンモウー・パン』(西瓜ジュース)の一気飲みで覚醒します。
正午までの時間を利用して、僕が持参した複写史料を見せながら、『日本人町の跡地』が捏造ではなく、古地図の場所と合致していることを説明することにしました。
続きは、次回BLOGへ。