1050年頃のタイは、周辺諸国から『Syam』と呼ばれていたことを、2007年10月23日のBLOGで触れました。
この当時のタイは自前の文字を持たず、統一国家としての体裁も整っていません。従って、『サヤーム สยาม 』の呼称は、国家の名前というよりは、“チ゛ヤオ・プラヤー川沿いに住んでいる民族集団の族名”に近いものだったようです。
その後、16世紀以降になって西洋諸国がタイに進出して来ると、タイは各国の多様な発音によって呼ばれるようになります。例えば、1511年に来タイしたポルトガル人は『Siao』、或いは『Syao』。1660年代以降になって来タイしたフランス人は『Siam』といった具合です。
西洋人作成のチ゛ヤオプラヤー川地図 フランス人作成の地図
下端がタイ湾河口、上端がアユッタヤー
左地図は、上端のアユッタヤー(着色部分)を『Siam』として記しています。
右地図は、インドシナ地図を『Siam』として記しています。
13世紀末のスコータイ王朝時代になって、タイは自前の文字を持つことになるのですが、国際契約取り交わす時の自国名を『Sayaam สยาม 』と記すようになるのは、19世紀以降に入ってからになります。
それでは、タイの国名が、『Sayaam สยาม 』から『Pratheet Thai ประเทศไทย 』(タイ国)に改名されたのはいつの事でしょうか?
1939年6月24日(昭和14年)、『サヤーム』(日本語はシャム)と呼ばれていた国家の政権を掌握したのは、国家元帥を務めた軍人政治家のピブン・ソンクラーム(欣賜名)でした。
ピブン首相は国家主義的な諸政策を鋭意推進するのですが、その政策の一つに『汎タイ主義』の民族運動がありました。
国名変更を行ったピブン首相(首相在位:1938-1944、1948-1957)
国家主義者のピブン首相は、タイ語の母国語化を行うとともに、周辺国に住む全タイ民族の大同団結を促すために、国家信条(ラッタニヨム)の中で、国名を『Sayaam』(シャム or サヤーム)から『Pratheet Thai ประเทศไทย 』(タイ国)に変更することを断行します。
ピブン首相が『Sayaam サヤーム』と言う呼称を嫌ったのは、歴史的に見て、チャム人、カンボジア人、中国人などの周辺諸国の人、そして西洋諸国人が、チャオプラヤ川流域に住むタイ人の事を指して言った一般呼称だったからと言われています。
バリバリの国家主義者であるピブン首相としては、他人からの借り物のような呼称を自国の名前にするなんて“トンデモナイ!”ことだったのでしょう。
中国南部、ミャンマー、インドシナ半島周辺に住むタイ系民族の盟主を志す国家としては、他人が名付けた『Sayaam สยาม 』(シャム)なんて以ての外!!タイ系民族のタイを冠した『Pratheet Thai ประเทศไทย 』(タイ国)こそ最も相応しいと言う訳です。
その後、サリット政権時代(1959年~1963年)になって、『Sayaam สยาม 』(シャム)の国名に戻そうとする運動が再燃しますが、結局、『Pratheet Thai ประเทศไทย 』(タイ国)を堅持することに決し、現在に至っています。
バンコクの街中を見回すと、現在でも『サヤーム』の冠名を使用している企業や団体の看板、或いは地域の標識が残っている所があります。
それを、歴史的懐古趣味だと評する人もいますし、周辺諸国に対する覇権主義を嫌う意思表示だと評する人もいます。
タイの国名に関わる話を数日間続けましたが、今回をもって、この話題は終えたいと思います。
興味の無い方にとっては、退屈で仕方ない話題だったことでしょう。心からお詫び致します。
ですが、僕にとっては、頭の中で無茶苦茶になっていた情報を、曲がりなりにも整理・整頓できたような・・・そんな良いチャンスに恵まれました。
我が儘をお許し下さい。