日本が江戸時代だった頃、日本人はタイのことを『暹羅(しゃむろ)』と呼び、明治時代に入ってから『暹羅(シャム』と呼び始めた・・・という僕の勝手な推論を、前回のBLOG(2007年10月18日)に記しました。





暹羅(しゃむろ)論拠は、1732年(享保17年)刊行の『和漢三才図解』の記述。『シャム』の論拠は、編纂から173年後の1882年(明治15年)になって漸く刊行された『西洋紀聞』の記述です。
















         『西洋紀聞』





話は飛びますが、19世以降、タイは自国のことを、『サヤーム สยาม 』と呼ぶようになります。





更に、1939年に国家主義者がタイ国の政権を手にすると、『サヤーム』の国名を『タイ国』(プラテート・タイ ประเทศไทย )に改名するのですが、この間の経緯は、次回BLOGで触れることにします。







それでは、タイ国が『サヤーム』と呼ばれるようになったのは、『いつ頃?』、そして『その背景は?』・・・タイの友人に訊ねて見ました。










僕   『サヤームと呼ばれるようになったのはいつ頃?』


タイ人 『遥か昔だよ』


僕   『どのくらい昔なの?


タイ人 『分からないくらい遠い昔の話だよ』





彼にとっては、『考えるだけで腹が減る話』、『一銭の得にもならない話』なのでしょう。さっぱり埒が明きません。やはり、面倒でも史料を繰るしかないようです。







あれこれと史料を漁ったのですが、なんと!灯台下暗しとはこの事です。僕の蔵書の『タイの辞典』(同朋舎)の中に、それらしき一節を見つけました。





史料によると、1050年のポーナガルのチャム語碑文にある『Syam』の呼称が最も古いようです。これに似た呼称は、ビルマのパガンに在る碑文(1120年)。そして、12世紀のカンボジア・アンコールワットの刻文にも見られると記されています。





その後、1511年(アユッタヤー王朝時代)に来タイしたポルトガル人は、タイの周辺国が呼んでいた『Syam』を耳にして、『Siao』、又は、『Syao』というポルトガル語に置き換えたようです。





その後、1660年代以降に来タイしたフランス人は、ポルトガル訛りの『Siao』、『Syao』を、フランス語の『Siam』として表現します。










フランス人が製作したアジア初の地図の効果は抜群でした。この地図上に記された『Siam』の文字が、やがて世界に広く流布することになります。












SIAMと記された東南アジアの地図







新井白石の『西洋紀聞』に記された『シャム』の話に戻りましょう。





フランス人宣教師がタイに進出したのは1660年以降。イタリア人宣教師が尋問されてたのは1709年です。殆ど同じ時代ですね。










イタリア人宣教師が新井白石の尋問に答えたタイの呼び名、フランス宣教師の『Siam』に極めて近い発音だったと考えても不自然ではないように思います。







僕は、最近まで、日本語訛りの『シャム』は、タイ語の『Sayaam สยาม 』が訛って変化したと思い込んでいましが、どうもそうではなさそうです。





フランス語訛りの『Siam』が、日本語訛りの『シャム』になった! これが、限りなく真実に近い! なんて思う、今日この頃です。