前回のBLOG(2007年10月18日)で、タイを表す漢語の『暹羅』が中国の明朝から日本へ伝わり、中国語の発音『Xian-luo』に似た日本語読みとして、『スエンロ』、又は『センラ』となり、後に、『しやむろ』とか『しゃむろ』に変化したことに触れました。
実は、その後も、『しゃむろ(暹羅)』の呼称が『シャム』へと変化して行くのですが、その経緯を知りたくて、日本の国会図書館で史料を探しました。
残念ながら、『和漢三才図解』(1732年)に匹敵するほどの史料には出合えなかったのですが、新井白石が著した『西洋紀聞』(1715年)の中に『シャム』の呼称が記されているという、嬉しくなるような一文を見つけました。
『和漢三才図解』
『西洋紀聞』の編纂は1715年。『和漢三才図解』は1732年の刊行です。つまり、『西洋紀聞』の方が17年も前の史料という事になります。
そうだとすれば!?・・・『しゃむろ(暹羅)』が『シャム』に進化したのではなく、『シャム』が『しゃむろ(暹羅)』に進化したことになってしまいます。
僕としては、とても信じられない情報ですが、いずれにしても、早急に『西洋紀聞』について調べて見ることにしました。
江戸時代の代表的洋学書リスト
新井白石がイタリア人宣教師を尋問して纏めた『西洋紀聞』と『采蘭異言』が見えます。
新井白石が著した『西洋紀聞』は、江戸時代初期の欧米事情を纏めた先駆的洋学書として有名ですが、屋久島に潜入して捕らえられたイタリア人宣教師のヨハン・シドッチを尋問して得た情報が三巻に分けて編纂されています。
その内容は、諸国の政治、地理、風俗、歴史の説明、キリスト教の解説、更に、新井白石の西洋文明観、キリスト教批判にまで及んだもので、当時としては、極めてマル秘の高い洋学書といえます。
その書物が刊行されるまでの経過を調べて見ると・・・僕の疑念は簡単に解消しました。理解を容易にするために、『西洋紀聞』が刊行されるまでの過程を年表として整理しましょう。
1709年 新井白石がイタリア人神父を尋問
1715年 尋問結果を『西洋紀聞』として編纂
1732年 『和漢三才図解』の刊行
1882年 明治時代になって『西洋紀聞』として刊行
つまり、徳川幕府は、『西洋紀聞』の高度な秘密性を考慮して、なんと173年間もマル秘扱いとし、明治時代になって漸く公開された書物だったのです。
歴史に『若し』はありませんが・・・ それでも、若し、『西洋紀聞』がもっと早く公開されていたならば、『しゃむろ(暹羅)』という呼称は誕生することなく、『シャム』という呼称が広く流布していたに違いありません。
『日タイ交流600年史』に次のような記述がありました。
『1896年(明治29年)、タイに渡航する船中から、国民新聞に「南蛮鉄」のペン・ネームで第一信を送信した宮崎滔天(とうてん)は、「友邦暹羅」と書いて、これを「シャム」と読ませた』。
「南蛮鉄」こと宮崎滔天(とうてん) チャンスがあれば調べて見たい人物
僕の個人的見解ですが、日本人がタイのことを『シャム』と呼び始めるのは、明治に入ってからという事になりそうです。