前回のBLOGでは、日本への一時帰国の折に、久しぶりに故郷に戻って亀山の頂きにある『サビエル教会』を訪ねたことを書きました。





しかし、残念ながら、其処には、昔懐かしいモルタル造りのクリーム色の塔は無く、超近代的ではあるものの、僕にとっては無味乾燥な『白亜の教会』が虚しく聳えていました。







   昔懐かしい亀山のザビエル教会           現在の白亜の教会



外観的には、美しいメロディー音を奏でる二塔の鐘楼は
あるのですが、その頂部には懐かしのトンガリ屋根が無く、鐘を支えるステンレスの支柱がはみ出ています。僕の脳裏に残るノスタルジックな『ザビエル教会』とは全く異質な現代風的建築です。






     現在の白亜の教会




実は、この教会の前身が、日本で初めて建てられたキリスト教会だと言う事は余り知られていません。この街で子供時代を過ごした僕ですら、その事を知ったのはズット後になってからでした。



このザビエル教会の建立時期は、戦国時代末期の1552年なのですが、それは、ケルン版ラテン語東洋イエズス会書簡集に収められている『建立許可の裁許状』によって知ることができます。








『1552年:教会建立許可の裁許状』

(左写真:角川書店・日本史探訪) (右写真:亀山公園の石碑に残る裁許状)




日本初の本格的キリスト教会が1552年に建立されたのは、史料からみても間違いないのですが、この教会を建立した当時者が『フランシコ・ザビエル』なのかどうかという事になると、若干の疑問符を付けざるを得ません。正確に言うならば、フランシスコ・ザビエルの弟子のトーレスがその当事者なのかも知れません。



なんとなれば、 教会建立許可の『裁許状』が発行されたのは1552年です。フランシスコ・ザビエルが中国広東沖の上川島で熱病に罹って病没したのが1552年。





即ち、フランシスコ・ザビエルは、教会建立許可の『裁許状』を手にしていないのです。そして、教会の工事完了時点は、既に日本から出国して中国の広東沖の島に滞在していたことになります。



しかし、時の山口の権力者・大内義隆(注1)の庇護を受けた事、そして、その大内義隆を継いだ大内義長(注2)が、ザビエルの弟子のトーレスに対して教会建設許可の裁許状を与えた事、これ等のことを慮ると、フランシスコ・ザビエルのパイオニア的な活動があったからこそ、日本初のキリスト教会が建立されたと言っても過言ではないような気がします。



(注1)大内義隆:後の権力者の毛利元就が仕えていた守護大名

(注2)大内義長:大友宗麟(豊後)の弟。毛利元就に襲われて自刃



ところで、日本でキリスト教の布教が始まったのは、フランシスコ・ザビエルが、マレー半島のマラッカで知り合った日本人アンジロー(ヤジロー)を伴って鹿児島に上陸した1549年(天文18年)だとされています。



タイ国のキリスト教(カソリック)の布教開始は、日本から遅れる事二年、フランシスコ会のボンフェル布教士がアユッタヤー王朝に到着した1551年だとされています。



同じ仏教国のタイと日本ですが、その後のキリスト教の置かれた環境は、タイは王朝の庇護の下で『自由闊達
』、日本は為政者の苛烈な取り締まりで『地獄』の如き様相を呈することになります。








         アユッタヤ王朝時代から続くカソリック教会  


(左写真)アユッタヤーのカソリック教会。江戸時代には日本人神父も在留。 

(右写真)バンコク(トンブリ区)のカソリック教会。ポルトガル人神父が在留。





1630年前後のアユッタヤー日本人村の人口は約1500人前後だとされていますが、その内の400人強が、日本のキリシタン禁制を逃れたカソリック信者だったとするオランダ側の史料が残されています。





《フランシスコ・ザビエルの参考年譜》




1541年:


キリスト教・イエズス会士(Society of Jesus)のフランシスコ・ザビエルは、ポルトガル王ジョアン三世の依頼でリスボン港からインド布教に出発。インド・ゴア、南インド、マラッカ、モルッカ諸島を遍歴。

1549年(天文18年):


マラッカで知り合った日本人アンジロー(ヤジロー)の案内で鹿児島に到着。

1550年(天文19年):


平戸、山口を経て京都にのぼるも応仁の乱の真っ盛りで布教に失敗

1551年(天文20年):


京都から山口に戻り、時の権力者の大内義隆に謁見。その庇護の下でキリスト教の布教開始。その後、山口の布教活動を弟子のトルレスらに託して九州の豊後へと赴き、豊後の港から中国広東沖の上川島(カンチュアン)に上陸。中国本土の布教を目指す。

1552年(天文21年):


熱病に罹って上川島で病没。遺体はインドのゴアへ送られ、その後ローマへ移送。