話が前後しますが、モン族の村を訪ねる当日、ガイド役の若者が、丁重な声で僕に話しかけてきました。

彼 『 チョット、お願いがあるのですが・・・ 』
僕 『 何ですか? 』
彼 『 カレッジで英語を勉強している兄を同行したいのですが、宜しいでしょうか? 』
僕 『 別に構いませんが、でもどうしてですか? 』
彼 『 外国人の貴方と英語を使って話したいと言っています 』
僕 『 英語は僕の母国語ではないので、お役に立てないと思いますが 』
彼 『 そんなことありません。英語で話しかけてやって下さい 』


弟の彼は、後期中等学校(高校)から現役でカレッジに入学したのですが、二十三歳の彼の兄は、仕事を退職して、カレッジの英語科に入学したのだそうです。向学心に燃える兄のためにと言う弟の依頼とあれば、母国語ではないと言う理由だけで、断る訳にもいきません。厚かましくも受けることにしました。

彼の兄は真面目な好青年でした。今年の秋から教職実習に行くモン族の小学校があるので一緒に訪ねることにしました。

モン族の村外れの高台の平地に小学校がありました。見るからに栄養源の乏しそうな赤土の運動場の端っこに長屋のような掘っ立て小屋が見えます。 雨露を凌ぐ屋根と壁があるだけで、電気も水もない貧疎な学校を目の当たりにして、思わず声を呑んでしまいました。植民地としたラオスの教育を頭から軽視した宗主国フランスの『 愚民政策 』の零落のきわみなのでしょうか? 

タイに魅せられてロングステイ
最初に訪れたモン族村の小学校・・・・・・最初は、失礼ながら、豚舎かと思ってしまいました。

酷く貧相な学校を唖然とした表情で眺める僕に、兄が先に進むように促します。
『 あまりの酷さに驚いたでしょう! 実は、現在建築中の新校舎を見て戴きたいのです 』

彼に従って、更に高台への道を進むと・・・真新しいL型の平屋校舎が眼前に現れました。

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彼のお兄さんが教職実習をすることになっている完成間近い小学校の新校舎

彼 『 この秋から、僕はこの学校で教職実習をします 』
僕 『 良かったね、おめでとう 』
彼 『 中身をどうして充実させるかが、僕たちのこれからの最大課題です 』


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新校舎で勉強をすることになる教区内のモン族の小学生

1890年代、西欧諸国の植民地化政策の経営哲学は、『 最小限のコストで最大限の収奪 』だったと言われています。日本軍国主義が行った戦争という過去を思うと、他国のことをとやかく批判する資格はありませんが、フランスがラオスに対して行った植民地政策(下記7項)も過酷なものだったことが窺えます。

① 年貢は収穫の5割 ② 年間40日の賦役 ③ アヘンはフランス総督府の専売 ④ 鉄道は敷設しない(現在も鉄道は無し) ⑤ 道路整備をしない(現在も道路網は最悪) ⑥ 医療機関の整備をしない(現在も劣悪) ⑦ 教育とその施設には投資しない

フランスの教育政策の内の『 教育に投資をしない 』に関して、ベトナムで知り合ったフランス人から話を聞いたことがあります。彼の言い分は次の通りでした。

『 ラオスでは教育に投資をしなかったが、その代わりに、隣国のベトナムに高等教育機関を作った。高等教育を受けたい思うラオス国民は、ベトナムに行きさえすれば、望みの教育を受けることが出来た筈だよ 』

詭弁を弄するとはこの事です。フランスが植民地としたラオスの教育政策を如何に蔑ろにしたかを証明しているようなものです。

宗主国フランスに唯々諾々として従ったラオス王国政府も、自国の教育政策に傾注しなかったようです。為政者のこのような欠陥的施策が、ラオスの教育の空白に拍車をかけることになったと言えそうです。

その後、樹立されたラオス人民共和国が、ようやく教育制度の構築に着手するのですが、
時既に遅し・・・頼りとなる教育者は海外に逃亡してしまい、教育そのもが全く立ち行かない最悪状態に陥っていたようです。


しかし、1986年から継続的に展開されて来た地道な教育政策がようやく効果を生み始め、更に、2000年以降、地方の教育局に対して与えられた地方分権のシステムによって、ラオスの教育機関は飛躍的に発展しつつあるようです。

モン族村からの帰途、ガイド役の弟が、シェンクアン市内の中等学校(中学と高校の一貫教育)に案内してくれました。以前はこの学校も掘っ立て小屋だったのでしょうが、今は真新しい三階建ての立派な校舎です。 (前回のブログで紹介済みの中等学校です)

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新校舎の中等学校(中学と高校の一貫教育)

教育レベルは、校舎の新しさだけで向上するものではありませんが、国家の教育に対する姿勢、子供に対する国家の期待が滲み出る器が学び舎だと思います。割れて汚くて、不潔な器で食事しても美味しくないし、滋養も付き難いことでしょう。

 
首都・ビィエンチャンで見かけた中学生  シェンクアン県で見かけた高校生

ラオスの小学校、女子中学生、女子高校生、女子大学生の制服は、全てラオス風の長い巻きスカートです。バンコクで見かけるようなヒップ・ボーン・スタイルのミニ・スカートを穿いた女性は一人も見かけませんでした。

ラオスの教育施策が益々充実し、やる気のある教師の育成、子供の才能を引き伸ばす教材開発、そして教育に対する親の啓蒙が行われ、就学率が更に上がることを心から祈念したいと思います。

ジャール平原のみすぼらしいレストランの入り口の両脇に、ラオスの国旗と赤い労働者の旗が翻っていました。こんな旗を見せられると、王政を廃止に追い込んだパテト・ラオ(愛国戦線)の時代と歴史を思い起こしてしまいます。なんとも印象的な光景でした。

 
レストランの入り口に掲揚されていたラオス国旗と労働者の旗 (シェンクアン県)

雨季に入ってからの旅行だったので、バケツをひっくり返したような強烈な雨を覚悟していたのですが、旅行中に雨らしい雨に逢うこともなく、楽しい田舎ムードのラオスの旅を満喫することができました。