ジャール平原に向かう飛行機の出発時間まで少しばかり時間があるので、ビィエンチャンに現存する最古の仏教寺院と教えられた『 ワット・スィーサケット 』まで足を延ばすことにしました。
ところが、ワット・スィーサケットの説明板を見ると、1818年の建立とあります。日本の年代に当て嵌めれば、日本全国の測量を行って、大日本沿海與地全図を作成した伊能忠敬が亡くなった年代ですので、ビエンチャン最古の寺院と言われても・・・それほど古くないような気がして・・・いまひとつピンとくるものがありません。

ワット・スィーサケットの本堂の屋根
その理由を聞くと、1827年~28年に、タイ・トンブリー王朝とランサーン王国(首都:ビィエンチャン)の間で行われたアヌ戦争で、ビィエンチャンの町は完膚なきまでに破壊されてしまい、損壊を免れて生き残ったのが『 ワット・スィーサケット 』だけだったということのようです。

ワット・スィーサケットの外壁の内側回廊(左側)と本堂回廊(右側)
戦乱の歴史を潜り抜けてきた『 ワット・スィーサケット 』の特徴は、バンコク様式、アユタヤー様式、ラオス様式、ヴェトナム様式、ルアン・プラバン様式、クメール様式など等、インドシナ半島の文化様式を至る所に取り込んでいることだそうです。

ワット・スィーサケットの本堂の回廊
残念ながら、門外漢の僕には、どの部分がどの国の様式に属するのかを明快に理解する知識はありません。しかし、そのような没個性的な寺院を作らざるを得なかった歴史的背景に興味が向いてしまいます。
マプラーオの木立に囲まれたビィエンチャンに残る最古の仏教寺院のワット・スィーサケットを出発する時間が迫って来ました。

ワット・スィーサケットの壁穴に埋め込まれた釈迦牟尼の小仏像
大きな寺院、小さな寺院、名の有る寺院、普通の寺院など、比較的新しい年代のの寺院が並ぶ閑静な通りを抜けて、我等ロートル(老頭児)4人組を乗せたオートバイ三輪車は、軽快なエンジン音を発しながら、ビエンチャンの国内線飛行場へと向かいます。
次の目的地は、我等4人の共通目的地、ベトナム戦争の隠れた戦場と言われるラオス奥地のジャール平原です。
ところが、ワット・スィーサケットの説明板を見ると、1818年の建立とあります。日本の年代に当て嵌めれば、日本全国の測量を行って、大日本沿海與地全図を作成した伊能忠敬が亡くなった年代ですので、ビエンチャン最古の寺院と言われても・・・それほど古くないような気がして・・・いまひとつピンとくるものがありません。

ワット・スィーサケットの本堂の屋根
その理由を聞くと、1827年~28年に、タイ・トンブリー王朝とランサーン王国(首都:ビィエンチャン)の間で行われたアヌ戦争で、ビィエンチャンの町は完膚なきまでに破壊されてしまい、損壊を免れて生き残ったのが『 ワット・スィーサケット 』だけだったということのようです。

ワット・スィーサケットの外壁の内側回廊(左側)と本堂回廊(右側)
戦乱の歴史を潜り抜けてきた『 ワット・スィーサケット 』の特徴は、バンコク様式、アユタヤー様式、ラオス様式、ヴェトナム様式、ルアン・プラバン様式、クメール様式など等、インドシナ半島の文化様式を至る所に取り込んでいることだそうです。

ワット・スィーサケットの本堂の回廊
残念ながら、門外漢の僕には、どの部分がどの国の様式に属するのかを明快に理解する知識はありません。しかし、そのような没個性的な寺院を作らざるを得なかった歴史的背景に興味が向いてしまいます。
マプラーオの木立に囲まれたビィエンチャンに残る最古の仏教寺院のワット・スィーサケットを出発する時間が迫って来ました。

ワット・スィーサケットの壁穴に埋め込まれた釈迦牟尼の小仏像
大きな寺院、小さな寺院、名の有る寺院、普通の寺院など、比較的新しい年代のの寺院が並ぶ閑静な通りを抜けて、我等ロートル(老頭児)4人組を乗せたオートバイ三輪車は、軽快なエンジン音を発しながら、ビエンチャンの国内線飛行場へと向かいます。
次の目的地は、我等4人の共通目的地、ベトナム戦争の隠れた戦場と言われるラオス奥地のジャール平原です。