タイが7億バーツ(約24億円)を投じて制作した超大作映画の『 ナレースワン大王 』の第2部を観賞しました。第二部の話は、ビルマでの長い人質生活を終えて、念願の故郷のアユタヤーへ帰国(1571年)したナレスワンが、アユタヤー王朝の気鋭の副王として成長する過程を描いたものです。
第一部(少年時代)は、2007年1月31日のブログで書いたのですが、捜しても見付かりません・・・
手違いで消してしまったようです・・・トホホ・・・

第二部の吊りポスター
第二部の粗筋
西暦1581年、ビルマの新国王(ナンタ・ブレーン)は、国内の反政府勢力を討伐するために、属国のアユタヤー王(17代プラ・マハー・タンマ・ラーチャ)に対して参戦を命令。アユタヤー王(17代王)は、かってビルマで人質生活を送った息子のナレスワンを、ビルマ領内の内乱討伐のために派遣します。
ナレスワンは、ビルマ皇太子(マン・サーム・キアット)が苦戦を強いられていたシャン族との戦いに参戦、縦横無尽の戦いによってシャン州を完全に占拠。武将としての評価を大いに高めます。

ビルマの属国だったアユタヤ王朝から、ビルマ国内の内乱討伐に派遣されたナレスアン副王
人質時代のナレスワンと確執の多かったビルマ皇太子は、ナレスワンの目覚ましい戦功を妬み、密かにナレスワンの殺害を計画。この意図を知ったナレスワンは、次第にビルマに反抗的な姿勢を取る様になります。
西暦1585年、反抗的な姿勢を取り始めたナレスワンに業を煮やしたビルマ王朝は、ビルマの筆頭将軍のスキーが指揮する部隊をナレスワン攻撃に差し向けます。

長筒銃でビルマ将軍スキーに挑むナレスワン副王
第二部の最終シーンは、ナレスワン副王が古式豊かな長銃でビルマの筆頭将軍スキーの胸板を打ち抜く場面で終わるのですが、ビルマ王朝とアユタヤー王朝の凄まじい戦闘は、これで終わるどころか、益々激しさを増して行く事になります。 第三部の封切が楽しみです。

長筒銃でビルマ将軍スキーの胸元に照準を合わせるナレスワン副王
以上が、第二部の大まかなストーリですが、実は、この映画の冒頭で、わが耳と目を疑うようなシーンが映し出されたのです。時代考証の観点から見れば、なんと時代が半世紀も遡ってずれているのです。
アユタヤーの地方都市・ピサヌロークを統治している青年副王のナレスワンが、数人の外国人義勇軍隊長に見守られる中で剣術の鍛錬をしている時に、来客がナレスアン副王を尋ねて来る場面です。ナレスアン副王に促されて、数人の外国人義勇軍隊長が、来客に対して自己紹介をするのですが、その中の一人がタイ語で次のように挨拶をしたのです。
『 私の名前は、オーク・ヤー・セーナー・ピムック、日本人義勇軍の隊長です 』

ビルマ国内のシャン族の内乱征伐に参戦したアユタヤー王朝の日本人義勇兵
『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』 という呼称は、アユタヤー王が臣下の一人の日本人に与えた官爵位です。『 オーク・ヤー 』 は、筆頭大臣と大臣格に与えられる官爵位のようなものであり、『 セーナー・ピムック 』 は、その日本人の仕事の内容を表す職制名です。
上記の自己紹介を日本語に意訳すると、『 私は、国王親衛隊前線総司令官を務める日本人義勇軍の隊長です 』と言うような意味になります。
アユタヤー王朝時代の貴族官吏や武将は、祖先や親から貰った名前や姓名を名乗る風習はなく、王様から授けられた一代限りの官爵位と官職名を、公式的にも日常的にも、自分の正式名として名乗ることが義務づけされていました。
アユタヤー王朝時代に、『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』の官爵位を名乗ることを許された日本人は、後にも先にも唯一人だけです。日本の歴史学界の通説としては、徳川幕府初期の外交文書の責任者であり、黒衣の宰相とも呼ばれた金地院崇伝の著した異国日記などに拠って、この日本人を『 山田仁左衛門長政 』と比定しています。しかし、アユタヤー王朝では、先述したように、個人の姓名を使用しない慣習ですので、日本名は一切記録に残っていません。
アユタヤー王朝に関する史料を読むと、この日本人が 『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』 に任官したのは1628年(寛永5年)とあります。第二部の映画の時代は1580年頃ですから、明らかに矛盾することになります。
因みに、 『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』 を山田仁左衛門長政と比定すればの話ですが、江戸時代の口伝的読み物によれば、彼の生誕日は1590年(天正18年)、彼がタイに渡った年代は1612年頃です。その他に、タイ史書の1610年説、江戸時代の山田仁左衛門長政渡唐録の1617年説などもありますが、いずれにしても、この映画の時代とは大きな年代の隔たりがあります。
別の信頼できる第一級史料によると、この映画に近い時代に、『 オーク・ヤー 』よりも一ランク下の『 オーク・プラー 』という官爵位を授けられた『 純広 』と呼ばれる日本人侍がいます。但し、理由は定かではありませんが、彼の官職名の記録は残っていません。この人物も日本人村の頭領と日本人義勇軍の隊長を担っていたとされています。
この『 純広 』という人物と山陰因幡の領主・亀井武蔵守が交わした二通の書状が残っています。この書状によると、亀井氏は、純広を仲介人としながら、アユタヤー王朝と徳川家康の仲を取り持った人物であることが分かります。 年代から推定すると、この映画の冒頭に登場する日本人義勇軍の隊長は、『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』ではなく、『 オーク・プラー・スミヒロ 』と名乗るべきなのかもしれません。
映画を見た後、タイ国立大学歴史学科の先生と語り合いました。
僕の意見:
この日本人は 『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』 ではなく、『 オーク・プラー・スミヒロ 』 だと考えるのが順当だと思います。『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』では、あまりに時代が違いすぎます。
先生の意見:
この映画は、歴史的事実を描いた映画ではなく、どこまでも商業主義に徹した娯楽作品なので、日本で知名度の高い『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』を登場させたのでしょう。
『 オーク・プラー・スミヒロ 』を知っている日本人は、貴方のような人を除けば、殆どいないのではないですか? もっとも、日本とタイの歴史を勉強したタイ人を除けば、一般的なタイ人で、『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』や『 オーク・プラー・スミヒロ 』を知っている人は皆無だと思いますけどね・・・
僕の意見:
確かに、タイの大学でアユタヤ王朝と日本の外交史を学んだ学生ならば、山田仁左衛門長政と比定されている『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』の呼称は知っています。しかし、僕もタイの大学で歴史を学んだはしくれですから、大学の歴史学科で勉強するタイ人が如何に少数かという事も知っています。
つまり、タイ人の殆どは、『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』 という名前を知らないのですから、『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』が『 オーク・プラー 』に替わったとしても、この映画の面白さが下落するとは思えないのですが・・・それとも、映画製作者は、多くの日本人が鑑賞してくれることを期待したのでしょうか・・・・
第三部の封切は、今年の12月を予定しているようです。第三部の山場となるストーリーは、タイ人ならば知らぬ人はいないと言われる『 スパンブリ・ノーン・サライの戦い 』です。
実際には、この時代には未だ存在していなかった筈の日本人義湯兵の隊長である 『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』がどんな活躍をするのか!? とても楽しです。

第二部のポスター
第一部(少年時代)は、2007年1月31日のブログで書いたのですが、捜しても見付かりません・・・
手違いで消してしまったようです・・・トホホ・・・

第二部の吊りポスター
第二部の粗筋
西暦1581年、ビルマの新国王(ナンタ・ブレーン)は、国内の反政府勢力を討伐するために、属国のアユタヤー王(17代プラ・マハー・タンマ・ラーチャ)に対して参戦を命令。アユタヤー王(17代王)は、かってビルマで人質生活を送った息子のナレスワンを、ビルマ領内の内乱討伐のために派遣します。
ナレスワンは、ビルマ皇太子(マン・サーム・キアット)が苦戦を強いられていたシャン族との戦いに参戦、縦横無尽の戦いによってシャン州を完全に占拠。武将としての評価を大いに高めます。

ビルマの属国だったアユタヤ王朝から、ビルマ国内の内乱討伐に派遣されたナレスアン副王
人質時代のナレスワンと確執の多かったビルマ皇太子は、ナレスワンの目覚ましい戦功を妬み、密かにナレスワンの殺害を計画。この意図を知ったナレスワンは、次第にビルマに反抗的な姿勢を取る様になります。
西暦1585年、反抗的な姿勢を取り始めたナレスワンに業を煮やしたビルマ王朝は、ビルマの筆頭将軍のスキーが指揮する部隊をナレスワン攻撃に差し向けます。

長筒銃でビルマ将軍スキーに挑むナレスワン副王
第二部の最終シーンは、ナレスワン副王が古式豊かな長銃でビルマの筆頭将軍スキーの胸板を打ち抜く場面で終わるのですが、ビルマ王朝とアユタヤー王朝の凄まじい戦闘は、これで終わるどころか、益々激しさを増して行く事になります。 第三部の封切が楽しみです。

長筒銃でビルマ将軍スキーの胸元に照準を合わせるナレスワン副王
以上が、第二部の大まかなストーリですが、実は、この映画の冒頭で、わが耳と目を疑うようなシーンが映し出されたのです。時代考証の観点から見れば、なんと時代が半世紀も遡ってずれているのです。
アユタヤーの地方都市・ピサヌロークを統治している青年副王のナレスワンが、数人の外国人義勇軍隊長に見守られる中で剣術の鍛錬をしている時に、来客がナレスアン副王を尋ねて来る場面です。ナレスアン副王に促されて、数人の外国人義勇軍隊長が、来客に対して自己紹介をするのですが、その中の一人がタイ語で次のように挨拶をしたのです。
『 私の名前は、オーク・ヤー・セーナー・ピムック、日本人義勇軍の隊長です 』

ビルマ国内のシャン族の内乱征伐に参戦したアユタヤー王朝の日本人義勇兵
『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』 という呼称は、アユタヤー王が臣下の一人の日本人に与えた官爵位です。『 オーク・ヤー 』 は、筆頭大臣と大臣格に与えられる官爵位のようなものであり、『 セーナー・ピムック 』 は、その日本人の仕事の内容を表す職制名です。
上記の自己紹介を日本語に意訳すると、『 私は、国王親衛隊前線総司令官を務める日本人義勇軍の隊長です 』と言うような意味になります。
アユタヤー王朝時代の貴族官吏や武将は、祖先や親から貰った名前や姓名を名乗る風習はなく、王様から授けられた一代限りの官爵位と官職名を、公式的にも日常的にも、自分の正式名として名乗ることが義務づけされていました。
アユタヤー王朝時代に、『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』の官爵位を名乗ることを許された日本人は、後にも先にも唯一人だけです。日本の歴史学界の通説としては、徳川幕府初期の外交文書の責任者であり、黒衣の宰相とも呼ばれた金地院崇伝の著した異国日記などに拠って、この日本人を『 山田仁左衛門長政 』と比定しています。しかし、アユタヤー王朝では、先述したように、個人の姓名を使用しない慣習ですので、日本名は一切記録に残っていません。
アユタヤー王朝に関する史料を読むと、この日本人が 『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』 に任官したのは1628年(寛永5年)とあります。第二部の映画の時代は1580年頃ですから、明らかに矛盾することになります。
因みに、 『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』 を山田仁左衛門長政と比定すればの話ですが、江戸時代の口伝的読み物によれば、彼の生誕日は1590年(天正18年)、彼がタイに渡った年代は1612年頃です。その他に、タイ史書の1610年説、江戸時代の山田仁左衛門長政渡唐録の1617年説などもありますが、いずれにしても、この映画の時代とは大きな年代の隔たりがあります。
別の信頼できる第一級史料によると、この映画に近い時代に、『 オーク・ヤー 』よりも一ランク下の『 オーク・プラー 』という官爵位を授けられた『 純広 』と呼ばれる日本人侍がいます。但し、理由は定かではありませんが、彼の官職名の記録は残っていません。この人物も日本人村の頭領と日本人義勇軍の隊長を担っていたとされています。
この『 純広 』という人物と山陰因幡の領主・亀井武蔵守が交わした二通の書状が残っています。この書状によると、亀井氏は、純広を仲介人としながら、アユタヤー王朝と徳川家康の仲を取り持った人物であることが分かります。 年代から推定すると、この映画の冒頭に登場する日本人義勇軍の隊長は、『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』ではなく、『 オーク・プラー・スミヒロ 』と名乗るべきなのかもしれません。
映画を見た後、タイ国立大学歴史学科の先生と語り合いました。
僕の意見:
この日本人は 『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』 ではなく、『 オーク・プラー・スミヒロ 』 だと考えるのが順当だと思います。『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』では、あまりに時代が違いすぎます。
先生の意見:
この映画は、歴史的事実を描いた映画ではなく、どこまでも商業主義に徹した娯楽作品なので、日本で知名度の高い『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』を登場させたのでしょう。
『 オーク・プラー・スミヒロ 』を知っている日本人は、貴方のような人を除けば、殆どいないのではないですか? もっとも、日本とタイの歴史を勉強したタイ人を除けば、一般的なタイ人で、『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』や『 オーク・プラー・スミヒロ 』を知っている人は皆無だと思いますけどね・・・
僕の意見:
確かに、タイの大学でアユタヤ王朝と日本の外交史を学んだ学生ならば、山田仁左衛門長政と比定されている『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』の呼称は知っています。しかし、僕もタイの大学で歴史を学んだはしくれですから、大学の歴史学科で勉強するタイ人が如何に少数かという事も知っています。
つまり、タイ人の殆どは、『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』 という名前を知らないのですから、『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』が『 オーク・プラー 』に替わったとしても、この映画の面白さが下落するとは思えないのですが・・・それとも、映画製作者は、多くの日本人が鑑賞してくれることを期待したのでしょうか・・・・
第三部の封切は、今年の12月を予定しているようです。第三部の山場となるストーリーは、タイ人ならば知らぬ人はいないと言われる『 スパンブリ・ノーン・サライの戦い 』です。
実際には、この時代には未だ存在していなかった筈の日本人義湯兵の隊長である 『 オーク・ヤー・セーナー・ピムック 』がどんな活躍をするのか!? とても楽しです。

第二部のポスター