ラヨーン散策-2の続きです。

トンブリー王朝(1767-1782年))の一代限りの王様となった『 タークシン王 』(1734生-1782歿)が祀られている『 ルン・マハーチャイ・チュムポン廟 』を訪れました。

タークシン王 』は、ビルマ・アラウンパヤー王朝の遠征軍によって、1767年に徹底的に破壊されたアユタヤ王朝の後継王朝としてトンブリ王朝を創建、自ら王位(在位:1767-1782年)に就いた『 救国の英雄 』です。

ラヨーンの地は、ビルマ王朝に蹂躙されたアユタヤを取り戻すために、アユタヤ王朝傘下の地方太守(ターク県)だったタークシンが兵を率いて決起した所縁の地の一つなのです。


タークシン王廟に鎮座まします彼の銅像は、バンコクやラヨーン等からの参拝者、特に中国系タイ人が手ずから貼り付けた金箔で、頭から足先まで埋め尽くされていました。

僕も20バーツ(70円)寄進して、時々生じる腰痛から来る左太腿の痛みが軽減するようにと祈りながら、タークシン王の左大腿骨と腰の辺りに金箔を貼って置きました。


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左:中国様式の廟王鄭(タークシン王廟)      右:廟内に安置されたタークシン王の銅像

タークシン王の母親はタイ族ですが、父親はアユタヤ王朝時代に賭博場の徴税人だった潮州華僑の鄭達です。ビルマ王朝がアユタヤ王朝に侵攻して来たとき、後にタークシン王となる彼はアユタヤの地方都市タークの太守を務めていました。

ビルマ・アラウンパヤー王朝遠征軍の勢いに圧されて、一旦は、タイ東南部のチャンタブリーやラヨーンに退避したタークシン王は、この地域の潮州華僑の支援を受けて巻き返しを図り、トンブリ要塞を拠点にしてビルマ軍を撃退。その後も、アユタヤ王朝崩壊の混乱に乗じて分裂した国内勢力を制圧、一気にトンブリー王朝の基盤を築いています。


それなのに、何故にトンブリー王朝は一代限りで終焉を迎えてしまったのでしょうか。
その原因は諸説ありますが、中国人との混血児として下層社会から伸し上がったタークシン王は、新王朝の重要官僚として華僑系の人物を多用して、アユタヤ王朝時代からの名門貴族を遠ざけたことが強く影響しているようです。

因みに、トンブリー王朝が創建されてから15年後の1782年、アユタヤ王朝時代からの名門貴族のグループがタークシン王を逮捕。タークシン王の身体を赤いベルベットの袋で包み込み、白檀の棒で首と胸をを殴打して死に至らしめる王族だけに執行される処刑方法によって撲殺しています。


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アユタヤ時代の王族だけに執行された処刑方式・・・・赤布は血が目立たないようにするためとか・・・

タークシン王を処刑したアユタヤ王朝時代の名門貴族のグループは、タークシン王に代わる王としてチャオプラヤー・チャクリーを推挙。チャクリーは現王朝のラタナーコーシン王朝(別名:チャクリー王朝)を興して始祖(ラーマ1世)となります。

通常ならば、アユタヤ王朝系の名門貴族と華僑系との陰湿な対立が生じても何の不思議もないのですが、ラタナーコーシン王朝は、さすがですね、タイ華僑の民族意識を実に上手に慰撫する策を取ります。

つまり、タークシン王を処刑したにも拘わらず、『 救国の英雄 』として大王に祀り上げ、トンブリー地区のロータリーの中央にタークシン大王の騎馬象を建立。更に、タークシン王記念日(12月28日)を設定して、現王朝の王様と王妃が参列して礼拝をする儀式を執り行うことにしたのです。

トンブリー王朝から新ラッタナーコーシン王朝への政権移譲は、タークシン王の処刑という陰惨な方法をとったものの、現王朝の華僑への巧妙な配慮が効を奏したのでしょう、大きな内乱状態への突入だけは避けることが出来たようです。


タクシン廟で知り合って何かと教えて貰った女性に、珍しい姿で横たわる涅槃仏のあるパー・プラドゥー寺 ป่าประดู่ へ行く道を訊ねたところ、彼女のバイクで先導して貰うことになりました。

親切な彼女の名前はナンタナー・ポーンさんです。聞けば、増築途上のパー・プラドゥー寺を毎日のように訪れてお世話をしているのだそうです。 彼女が運転するホンダのバイクは程なくパー・プラドゥー寺に到着しました。

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左側の身体を下にして横たわるバー・プラドゥー寺の涅槃像

バー・プラドゥー寺の礼拝堂に入ると、正面の壁の前に全長11.95mの涅槃像が横たわっていました。先ほどのタクシン王の廟の銅像と同じく、参拝者が手ずから擦りつけた金箔が、頭から足の先まで余す所なくビッシリと貼り付けられています。

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アユタヤ王朝時代の初期(13世紀-14世紀)に造られたというパー・プラドゥー寺院の涅槃仏

この寺院の熱心な門徒でもあるナンタナー・ポーンさんは、左側を下にして寝る姿の涅槃像はパー・プラドゥー寺にしか存在しない(?)と自慢げに説明します。

言われてみれば、有名なバンコクのポー寺院の涅槃仏もそうですが、今まで見た涅槃仏は全て右側の身体を下にして横たわっていました。

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右の身体を下にして横たわるナコンパトムのプラ・チェディー寺院の通常の涅槃仏

僕   『 この涅槃物は、どうして反対側を下にして寝ているのですか?
彼女 『 きっと、仏師が作って見たかったのでしょうね


バンコクへ戻ろうとする僕に、ナンタナー・ポーンさんが自分の携帯電話の番号を書いた紙切れを渡してくれました。

増築した寺院の落成式があるので、是非とも一緒に祝って欲しい

再開を約束して分かれました。


今回のラヨーンへの小旅行( 往復 610km )はこれで終わりです。
僕の旅の良き同伴者でもある、『 愛車・チャ-リー 』に導かれてバンコクへと戻りました。

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ラヨーン県の海岸線の林間で一息つく愛車のチャーリー

『 チャーリー 』とは、バンコクの土となった僕の愛犬の名前でもありますが、ジョン・スタインベックの旅行記『 チャーリーと供に 』に肖って、旅の相棒であるCR-Vの愛称として命名したものです。