(前回ブログの粗筋)

土佐の漂流漁民 萬次郎は、約10年の米国生活を経て琉球に上陸して捕縛され、その後薩摩藩と長崎奉行所での糾問を受けた後に土佐に帰郷。土佐藩主 山内容堂に見いだされて土佐藩の最下級の士分(徒士格)として名字帯刀を許されて中濱萬次郞を名乗ったのが1852年1月24日(嘉永4年12月4日)でした。

 

ペリーの率いる米国海軍東印度艦隊の黒船四隻が浦賀に来航して米国大統領の国書を手渡し、1年後に回答を得るために再来することを告げて浦賀を出港したのが1853年7月8日(嘉永6年6月3日)。直ぐに帰国するかと思いきや、江戸湾奥の羽田沖まで侵入して威力的偵察を行ってから江戸湾から出て行ったのが1853年7月17日(嘉永6年6月12日)でした。


幕府老中首座 阿部伊勢守正弘が土佐藩主 山内容堂に対して、米国帰りの元漂流漁民 萬次郞の江戸召喚を命じたのが1853年8月1日。それはペリー司令官が第二回目の来航を予告して江戸湾を去ってから2週間後の事でした。

 

1853年8月30日に江戸鍛治屋橋の土佐藩上屋敷に到着した中濱萬次郞は、老中首座 阿部正弘や幕閣の屋敷に召喚されて米国事情の聴聞を受けるのですが・・・その三ヶ月後の1853年12月5日(嘉永6年11月5日)、老中首座 阿部正広の超法規的処置によって、中濱萬次郞を土佐藩から引き離して幕府直参旗本に登用(最下級の普請役格)することを決定。滞在していた土佐藩江戸藩邸上屋敷から幕府の江戸湾防備を担っていた直参旗本 江川太郎左衛門の江戸屋敷(墨田区亀沢)に移り住むことを指示します。(以上前回ブログの粗筋)

 

中濱萬次郞が幕府直参旗本に登用されてから約2ヶ月後の1854年2月13日嘉永7年米国東印度艦隊のペリー司令官が、第13代米国大統領ミラード・フィルモアの国書に対する幕府の回答を求めて再び来航します。

 

 

フィルモア米国大統領 ペリー東印度艦隊司令官

 

中濱萬次郞を江戸に召喚して直参旗本に登用した老中首座 阿部正弘の狙いは、約10年余に及ぶ米国での社会生活で得た萬次郞科学的情報社会的情報を幕府の海防政策立案の一助とし、更に一年以内に再来するペリー司令官との交渉における英語通詞として活用することでした。

 

 

海防掛 江川太郎左衛門    中濱萬次郞

 

幕府海防掛の江川太郎左衛門(韮山代官兼務)もまた、一年以内に再来するペリー司令官との交渉において、従来のオランダ語を介在させる手間暇のかかる交渉ではなく、ペリーと英語で直接交渉できる中濱萬次郞の活用を考えていました。


しかし「中濱萬次郞は米国のスパイでは?」、「恩のある米国側に内通するのでは?」との疑惑を抱いた水戸藩第9代藩主 徳川斉昭 (幕府海防参与)一派の圧力によって、中濱萬次郞を日米交渉の通訳にする計画は完全に潰されてしまいました。当然ながら長崎奉行所配下の地役人としてオランダ語通詞の職を代々世襲してきた家系からの猛烈な抵抗もあったと思います。

 

水戸藩第9代藩主 徳川斉昭 (幕府海防参与)

 

結果として「日米和親条約」の折衝は↔オランダ語↔日本語Relay Interpretationと「漢文による筆談(Written conversation using Classical Chinese)で行われたのですが・・・

 

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に締結された「日米和親条約」の条文は、オランダ語、英語、日本語、漢文の重訳記載Pivot Translation)なりました。しかし正文を何語にするかの記述がなく、どれもが正文に準ずるような扱いになっていました。

 

日本語の日本國米利堅合衆國和親條約の署名者は、全権の林大学頭(復齋)井戸覚弘伊沢政義鵜殿長鋭の4人だけであり、米国側は誰も署名していません。但し日本語の原本は、幕府から米国側に渡されています。(下掲写真)

 

日本國米利堅合衆國和親條約 (日米和親条約) WEBより拝借

 

英語文の「Treaty of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan」の署名者は、米国全権のマーシュ・ペリーだけで、日本側の署名はありまません。但し米国側の原本は、幕府側に渡されています。(下掲写真) 

 

両者が署名した契約書を双方が保有する現在の慣習とは違いますが、これが当時の外交的慣例だったようですね。

 

Convention of Kanagawa (日米和親条約)

英語条文の正式名の略称としてConvention of Kanagawaが多用されたようです。

 

オランダ語版の署名は、オランダ語の通詞を担った日本側の森山栄之助と米国側のアントン・ポートマンが署名・加筆を行っていますが、両国の全権者は誰も署名をしていません。

 

ところが漢文版(写本)の署名欄には「兩國全權諸臣下印作證」と付記されています。つまり日本側全権の林復齋(大学頭)、井戸覚弘(大目付)、伊沢政義(浦賀奉行)、鵜殿長鋭(目付)、そして米国全権のマーシュ・ペリー(米国東印度艦隊司令官)の五人が揃って署名しています。

 

英語・オランダ語・日本語・漢文によって調印された日本國米利堅合衆國和親條約」(通称:日米和親条約 )ですが、両国の全権が揃って署名している条文の言語は、英語でもなく、オランダ語でもなく、日本語でもなく、なんと「漢文」だけだったのです。

 

文版の日米和親条約 (WEBより拝借)

 

香港を中継基地としてアジア諸国との交渉を行っていたペリー司令官は、当時の日本を含む東アジアの地域の外交上の共通言語が中国語の古文に相当する「漢文」であることを承知していたのです。

 

日本との条約を完璧に仕上げるには、漢文」の読み書きができる人材が必須要件であることを知っていたペリー司令官は、中国文も漢文も堪能な東洋学者で、宣教師と外交官でもあった米国人のミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ氏(42歳)を、二度に亘る日本遠征の首席通訳官として同行していました。

 

さらにS・W・ウィリアムズ氏は、二度目の日本行きの時に、漢文で書く条約文の微調整と清書の協力者として、漢詩・漢文・英語に熟達した中国人の羅森( Luó sēn)を同行していました。

 

日本のコンビニチェーン店「LAWSON」は、中国語の繁体表記では「羅森」(発音:luó sēn)、簡体表記では「罗森(発音:luó sēn)と書きますが、これはLAWSONの発音が「羅森」と似ているための当て字であって、羅森氏とは何の関係もないそうです。

 

 

首席通訳 S・W・ウィリアムズ氏 & 羅森氏

 

ウィリアムズ氏(42歳)は、黒船で二度来日した折りに綴っていた日記を「ペリー日本遠征随行記」として出版しています。羅森氏も日本滞在時のことを日本日記」として書き残しており、両方とは貴重な第一次資料として評価されています。

ペリー日本遠征随行記 S・W・ウィリアムズ著

 

1854年に吉田松陰と金子重之輔は、米国への密航を企図して浦賀沖に停泊中のポーハタン号に乗り込み、漢文の投夷書」(密航嘆願書)ウィリアムズ氏手渡しています。ペリー司令官は二人とは面談していないのですが、「投夷書」の内容をペリー司令官に伝えたのはウィリアムズ氏でした。

 

投夷書」には、「五大洲(世界)を巡って見聞を広め、真の学問を修めたい」と吉田松蔭と金子重之輔の熱望が漢文で書かれていました。しかし署名欄には、本名ではなく、瓜中萬二(吉田松蔭)と市木公太(金子重之輔)という偽名が記されていました。

 

吉田松陰の書いた「投夷書」(密航嘆願書)の写本

 

日米和親条約を締結した後にウィリアムズ氏から日本人二名の密航嘆願書の報告を受けたペリー司令官は、日本との関係悪化を避けるために両名の密航嘆願を拒絶します。要求を拒否された失意の二人は、下田奉行所に自首して浦賀の長命寺で一時的拘禁となるのですが・・・日本人二名の安否を気遣ったペリー司令官の命を受けたウィリアムズ氏が長命寺を訪れて見舞った記録が残っています。

 

ペリー司令官は、自著の日本遠征記で、吉田松陰と金子重之輔の事を次のように書き残しています。

 

此の二人の日本人の思考と性向をみれば、此の興味深い国の前途は何と有望で可能性を秘めていることか!二人を米国に連れて行くことが出来なかったことを大変残念に思う・・・云々

 

日本遠征記 マーシュ・ペリー著(米国東印度艦隊司令官)

 

いつもの悪癖で話の流れが逸脱してしまいました。中濱萬次郞に関する話題に戻りましょう。

 

1871年(明治4年)に福井県のお雇い英語教師として働いた米国人ウィリアム・グリフィス氏は、1887年の自著Matthew Calbraith Perry : A Typical American Naval Officer」のなかで、「中濱萬次郞は、日米和親条約の交渉における英語の翻訳の裏方として尽力した。」と記述をしています。

 

通説では、先述したように水戸藩第9代藩主 徳川斉昭 (幕府海防参与)一派から「米国のスパイでは?」と疑われて日米和親条約の通訳から完全に除外されているのですが、ちょっと気になるので自分なりにチェックしてみました。

 

  

W・グリフィス彼の著作「M・C・ペリー伝」

 

ウイリアム・グリフィス氏の「M・C・ペリー伝」は、ペリー司令官没後の29年目にペリー司令官の書いた日本遠征記Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japanをベースにして書かれた著作との記事がありました。

 

しかし日本遠征記のなかには、中濱萬次郞に関する記述は全くありません。ペリー司令官と中濱萬次郞が出合ったとする一次資料も現存していないことから、「中濱萬次郞が英語の翻訳掛として働いた」とするグリフィス氏の記述は、彼の願望的想像だろうと推測されているようです。

 

日本人が誰もいない米国の小中学校で英語教育を受けた後に海技専門学校を首席で卒業し、大型の外洋捕鯨船の一等航海士(副船長格)に昇格した中濱萬次郞の英語力は高かったと思いますが・・・

 

四国の土佐中ノ濱村では寺子屋にも通えずに読み書き教育を受けていない彼の境遇から想像すると、英語文章を漢字入りの日本文に翻訳することは至難の技だったのではないでしょうか?

 

これは僕の個人的想像ですが、中濱萬次郞自身は、外交折衝上の通訳や翻訳者としての華々しい仕事よりも、できる事ならば自分が経験した船舶の航海技術や運用術の指導者として、日本の近代化に尽くしたいと思っていたのではないでしょうか?

 

その後の中濱萬次郞の活躍については、次回にしたいと思います。