前回ブログで中濱萬次郞が攘夷論者の水戸藩第9代藩主 徳川斉昭から「米国のスパイではないか?」とあらぬ疑いをかけられ、結果として日米和親条約交渉の英語通詞として表舞台に立つチャンスを潰された経緯について書きましたが・・・
活躍の場を失った中濱萬次郞は、幕府で海防を担当していた江川太郎左衛門(海防担当)の勧めで、欧米で航海者の聖書として高い評価を受けていた「ボーディッチ航海術書」の翻訳に取り掛かります。同時に海防強化の一助として、江川邸内の私塾で学ぶ塾生のために欧米式軍艦や外洋大型捕鯨船の講義と天文航海術、運用術、造船学、高等数学、外国事情などの授業を行っていました。
江川太郎左衛門邸内の私塾
そんな中濱萬次郞に新しいがチャンスが到来します。1857年5月4日、幕府の海軍教育機関として築地講武所内(現:中央区築地)に新設された「軍艦教授所」(後の軍艦操練所)で天文航海術、測量術、造船学、英語等を指導する教授の仕事が舞い込みます。
江戸築地の軍艦教授所(後の軍艦操練所)
中濱萬次郞を幕府の軍艦教授所(後の軍艦操練所)の教授任命に尽力したのは、彼の実力を熟知していた幕府海防担当の江川太郎左衛門でしたが・・・米国から那覇に密入国した元漁師の萬次郞を捕らえて尋問した後に、死罪宣告ではなく無罪放免とした上に、「萬次郞儀 希に見る逸材なり」と幕閣に上申した薩摩藩主の島津斉彬や勘定奉行の川路聖謨(元長崎奉行)の慧眼があったこそだろうと思います。
薩摩藩主 島津斉彬 元長崎奉行 川路聖謨
さらに中濱萬次郞を江戸に呼び寄せて聴取した幕府外交担当の林大学頭復齋や儒学者の大槻磐渓が萬次郞の理路整然とした話しを高く評価したことも幸いしたと思われますが、やはり極め付きは、中濱萬次郞を幕府直参の旗本(普請役格)として抜擢登用した老中首座 阿部正弘の英断であったと思います。
老中首座 阿部正弘、外交責任者 林大学頭復齋
日本在住時代の萬次郞少年(14歳)は、貧しさのために寺子屋で学ぶことも出来なかったので、土佐弁は喋れても日本語の読み書きが殆ど出来なかったそうです。14歳の少年が乗っていた小型漁船が漂流、無人島で苛酷な生活を経た後に米国捕鯨船に救出されて米国東海岸に到着。日本人が一人もいない米国社会で10年余に亘って英語名の「ジョンマン」(John Mung)として生き抜き、その後に命がけで日本に那覇した経緯は、過去の拙ブログで既に書きましたので詳細は割愛しますが・・・
米国マサチューセッツ州の小中学校で英語の読み書きを必死で履修した「ジョンマン」は、地元の難関校の海事技術専門学校の"Lewis Bartlett Academy"で航海術、測量術、代数学、幾何学、造船学を履修して首席で卒業した頑張り屋でした。
旧 Lewis Bartlett Academy(海事技術専門学校)
海事技術専門学校を卒業した"John Mung"(ジョンマン)は、米国の大型外洋捕鯨船の副船長格の一等航海士まで上りつめて北大西洋・南太平洋・北太平洋で苛酷な経験を積んだ精神力の強い男ですから、帰国後の日本で受けた米国のスパイ疑惑なんかで挫折するような人物ではありませんでした。
おそらく米国流に"One door shuts and another opens."(意訳:捨てる神あれば拾う神あり)の不屈の精神で耐え抜いたのではないでしょうか。
さらに軍艦教授所の教授だった勝麟太郎(後に教授方頭取に昇格)との出合いも幸運でした。当時の日本人権威者の実態は、「本からの知識」だけの「机上の空論」ばかりで実力が伴っていないことに気付いていた勝麟太郎は、中濱萬次郞の卓越した知識が「実体験に基づく生きた科学的技術論」であることを知って驚愕しています。
軍艦教授所の教授方頭取勝麟太郎は、自ら率先してヒラ教授の中濱萬次郞から実践的英語、最新の西洋式天文航海術、造船術、測量術、そして世界情勢の教えを受けた一人でした。
勝麟太郎 筆頭教授 中濱萬次郞 教授
江戸本所の江川太郎左衛門邸内の「私塾 」(萬次郞塾)と新設立の「幕府軍艦教授所」で、中濱萬次郞教授から直々に英語、高等数学、造船学、天文航海術、測量術、そして米国事情を学んだ生徒の中には、戊辰戦争終盤に旧幕府艦隊の最新鋭フリゲート艦開陽丸(400馬力)で蝦夷地の五稜郭に立て籠もって「蝦夷共和国」を起こして官軍に抵抗した旧幕府系の人物も多くいました。
旧幕府海軍の最新鋭艦 開陽丸
官軍に抵抗した旧幕府系の「蝦夷共和国」の選挙で選任された総裁 榎本武揚(釜次郞)と陸軍奉行の大鳥圭介もまた中濱萬次郞の教えを受けた生徒でした。
榎本武揚と大鳥圭介の中濱萬次郞に対する恩義は、中濱萬次郞がスパイ容疑を掛けられて窮地に陥った時も良き理解者となって擁護。三人の親密な関係は、萬次郞が病没するまで約40年間に亘って続いています。3人の親密な関係については、次回以降のブログ最終版でもう少し触れたいと思っています。
榎本武揚と大鳥圭介
1858年7月29日に米国総領事のタウンゼント ハリスと幕府大老 井伊直弼によって締結された日米修好通商条約の批准書交換のために、1860年2月9日(安政7年)、新見正興を正使とする幕府の遣米使節団が米国海軍のポーハタン号に搭乗して米国に出発します。
遣米使節団 副使 村垣範正、正使 新見正興、目付 小栗忠順
ポーハタン号で米国に向う遣米使節団が正式決定すると、先任軍艦奉行の水野忠徳は、同僚の木村摂津守喜毅と協力して、太平洋横断を行える日本人の実力を国内外に示威する好機と捉え、日本人の手だけで操艦する随伴艦を仕立てることを大老 井伊直弼に進言して許可を受けます。
軍艦奉行の水野忠徳と木村喜毅
先任軍艦奉行の水野忠徳は、軍艦奉行と軍艦教授所の責任者を兼務していた木村摂津守喜毅を随伴艦の総責任者(司令官)に任命。木村摂津守喜毅は、軍艦教授所の教授頭取 勝麟太郎を随伴艦の艦長に指名し、教授方の中から航海士官、運用士官、機関士官を選任します。
随伴艦として最終決定したのは、オランダで建造された後に長崎海軍伝習所の練習艦として納入され、その後江戸築地軍艦教授所の練習艦となっていた木造バーク式三本マストの蒸気コルベット艦の咸臨丸でした。(排水量:625英噸、総噸数:380噸)
随伴艦に決定した軍艦教授所の練習艦 咸臨丸
しかし太平洋横断を経験した事のない日本人の艦長・士官・水主(水夫)の乗員構成に不安を抱いた咸臨丸の新任司令官の木村摂津守喜毅は、米国への帰国便船を待つ間だけ軍艦教授所で技術指導をしていた世界の海を熟知している米国海軍測量艦の艦長 ブルック大尉と配下の10名の協力が不可欠と判断し、随伴艦・咸臨丸の技術アドバイザーとして同乗してもらう契約を結びます。
米国測量艦 艦長ブルック大尉
そしてさらに、軍艦教授所の教授 中濱萬次郞が米国の大型外洋捕鯨船の一等航海士(副船長格)として地球三周以上の並外れた高度な操船技術と航海技術を有していること、さらに米国人がネイティブと評価する英語堪能者の萬次郞を高く評価し、 咸臨丸の太平洋横断に必要な人材として登用することを決定します。
中濱萬次郞を登用した木村摂津守喜毅の判断は、まさに正鵠を得ていました。サンフランシスコへの37日間の往路航海で34日連続で続いた激烈な悪天候下で、日本人司令官、艦長、士官、水主(水夫)の多くが酷い船酔いとなって全く仕事が出来ない状態に陥ってしまい、咸臨丸が沈没の危機に瀕してしまったのです。
真冬の北太平洋の大時化の中を航海する咸臨丸
船酔いで寝たっきりの木村摂津守喜毅(司令官)と船酔いと大腸カタル(?)で艦長の仕事を果たせない勝麟太郎は、咸臨丸の沈没を避けるために、ブルック大尉に咸臨丸の操艦権限を暫定委譲します。ブルック大尉と配下の米国人乗員11人、そしてブルック大尉の要請を受けた中濱萬次郞は、八面六臂の活躍をして遭難寸前の咸臨丸を危機から救ったのです。
このような真実が明らかになったのは、ブルック大尉の航海日記の公開だったのですが・・・その航海日記が公表されたのは、なんとブルック大尉の病死(1906年12月 80歳没)から50年後の1956年(昭和31年)でした。
ブルック大尉は、海軍設立以前の経験不足の日本人乗員の生々しい実態を書き留めた自分の航海日記の公表を、将来ある若き日本人の名誉のために、自分の死後50年間封印することを家族に遺言し、ブルック大尉の子孫は彼の遺言を守り通したのです。
ブルック大尉の遺言が日本国内で翻訳公表されたのは、米国発表からさらに5年後の1861年(昭和36年)に風間書房で刊行された「万延元年遣米使節史料集第五巻」に収録されていた「咸臨丸日記」でした。
万延元年遣米使節史料集 全7巻
咸臨丸の帰国後に多くの日本人乗員が発表した渡航記文書には、「日本人だけの実力で渡航した!」ことを誇示する誤った記述が矢鱈滅多に多く・・・これらの誤った記述がなんと幕末から昭和31年頃まで定説として信じられていたのです。
しかし当時の日本人乗組員の実力を正直に書き残した人物もいました。咸臨丸司令官の木村摂津守の従者で鼓手を担っていた16歳の少年 斉藤留蔵です。彼は年嵩の上役に全く忖度することなく次のように書き残しています。
司令官の従者 兼 鼓手 斉藤留蔵(16歳)
「咸臨丸が沈没しないで無事にサンフランシスコに到着できたのは、つとにブルック大尉を含む11人の米国人と中濱萬次郞の尽力のお陰であった」と「亜行新書」に書き連ねていたのです。
16歳の少年武士がありのままの事実を書いた「亜行新書」もまた、昭和31年刊行の「万延元年遣米使節史料集」の第四巻に収録されています。
咸臨丸の太平洋横断の往路で、絶体絶命の咸臨丸を救った米国海軍のブルック大尉を含む11人の米国人乗員と中濱萬次郞の仕事ぶりは、過去の拙ブログで既に書きましたので此処では割愛します。
次回ブログでは、サンフランシスコから日本に帰国した後の中濱萬次郞の仕事ぶりについて書きたいと思っています。




















