長崎奉行所で無罪放免の判決を受けた萬次郞ら三人は、土佐藩差し回しの藩士17名に護衛されて、1852年8月10日に長崎から陸路で出立し、馬関海峡(現:関門海峡)から海路二日間で伊予松山藩三津浜に入港 。そこから陸路で伊予宇和島藩を経て1852年8月25日に土佐藩に到着。
漂流三人組にとっては、10有余年ぶりの帰郷となりました。漂流当時14歳の見習い漁師だった少年萬次郞は、25歳の偉丈夫になっていました。
長崎奉行所で無罪放免となった萬次郞ら三人を引き取った土佐藩は、高知城下廿代町の松尾喜三郎が営む宿屋の「松尾屋」に彼らを逗留させます。藩主 山内容堂の依命を受けた大目付吉田東洋(儒学者)は、藩校教授館の教授方吉田正誉(マサタカ)と儒学者で絵師でもある河田小龍に三人の聴聞を行うように指示します。
直ぐにでも故郷の中浜と宇佐浦に帰ることが出来ると思っていた萬次郞ら三人でしたが、殆ど毎日のように吉田正誉と河田小龍の屋敷に通って聴聞を受けることになります。時には萬次郞と同じ25歳だった藩主 山内容堂の屋敷に呼ばれて聴聞に応じたり、土佐藩の高官や学者の屋敷に招かれることもあったようです。
土佐藩主 山内容堂 (WEBより拝借)
藩校教授館の教授吉田正誉(マサタカ)は、三人から聴取した内容を「漂客談奇」として編纂し藩主の山内容堂に献上。当時の海外情報を知ることができる「漂客談奇」は、土佐藩の公式記録となりました。
吉田正誉が編纂した「漂客談奇」 WEBより拝借
同じく藩主 山内容堂の命令によって萬次郞ら三人を聴聞した河田小龍も、三人の語る米国の文化、社会、政治、民主主義、大統領選挙、国民生活、近代捕鯨、高等数学、天文航海術、近代的通信、汽車、南洋の島々の状況等々の広範な情報を、詳細な彩色挿絵と文章によって「漂巽紀畧」を編纂しています。
絵師 河田小龍が編纂した「漂巽紀畧」 (WEBより拝借)
京都で狩野永岳に師事した絵師の河田小龍の編纂した「漂巽紀畧」には、萬次郞、傳蔵、五右衛門から聴聞した西洋の様々な様相が彩色絵図と文章によって編纂されていますが、その中に萬次郞、伝蔵(旧名:筆の丞)、五右衛門が琉球に上陸した時の西洋ファッションが描かれていました。
萬次郞によれば、琉球に上陸した時に着ていた西洋式洋服は、長崎奉行所で全て没収されたと言っているので、このファッション図は、三人の説明を聴きながら描かれたのだと思います。添え書きの年齢は、満年齢ではなく数え年だと思います。
琉球に上陸した時の三人の衣装(漂巽紀畧より)
土佐藩お抱えの絵師で儒学者の河田小龍は、私塾の「墨雲洞」で世界の動静や日本の将来について、多くの志士の啓蒙に大きな役割を果たした人物ですが、彼の世界を見据えた開明的思想は、若き坂本龍馬の思想形成に大きな影響を与えたと言われています。
儒学者&絵師の河田小龍 坂本竜馬
更に坂本龍馬の「船中八策」を土佐藩主 山内容堂に示して大政奉還の建白書提出へつながる役割を果たした後藤象二郎も河田小龍の影響を受けた人物でした。因みに後藤象二郎は、武市半平太に殺害された大目付吉田東洋の甥です。
土佐藩参政 後藤象二郎(左)、大目付 吉田東洋(右)
萬次郞ら三人から聴聞した吉田正誉の「漂客談奇」(土佐藩の公式記録)と河田小龍の「漂客談奇」は、土佐藩内だけでなく幕府や他藩の開明派の大名や志士のあいだでも、筆写や増刷によって広く読まれることになります。
1852年8月25日に長崎から土佐藩に到着して約70日余りに及ぶ聴聞を受けた萬次郞ら三人は、同年11月5日に漸く故郷への帰村許可が出ます。但し土佐藩15代目藩主 山内容堂から、「生涯を通して各人に一人扶持を与えるので、今後は漁師の仕事をしてはならない。」との下知を受けます。
幕末の土佐藩の一人扶持とは、一日五合(750g)、一ヶ月一斗五升、一年間一石8斗(米俵5俵分 270kg)の支給となり、足軽クラスの下士の俸禄に相当するようです。現在の価値への換算方法は幾つかあるようですが、歴史学者の磯田道史氏の換算式によると48.6万~54万になるようです。
一人扶持 一年間1石8斗=米俵5表 (WEBより拝借)
高知城下を発った萬次郞ら三人は、20km離れた伝蔵(旧名:筆の丞)と五右衛門の故郷「宇佐浦」(土佐市宇佐浦)に到着。しかし二人兄弟の実家は既に無くなっていたので近所の従兄弟の家に萬次郞を含む三人で宿泊。親戚が一堂に会しての賑やかな祝宴が夜遅くまで続いたそうです。
後日談ですが、伝蔵(旧名:筆の丞)と五右衛門は、宇佐浦の各々の部落の庄屋の地位を得て地域に貢献したそうですが、宇佐浦で別れた萬次郞とは、生涯一度も会う機会がなかったそうです。
宇佐浦を発った萬次郞は、陸路を四日(130km)かけて故郷の中濱(現:土佐清水中浜)に到着。萬次郞を待ち侘びていた母親、姉妹3名、兄1名と11年10ヶ月ぶりの再会を果たします。
萬次郞の故郷「土佐中濱」 現:土佐清水 (WEBより拝借)
ところが僅か三日目の1852年11月19日、萬次郞は、土佐藩主 山内容堂の命令によって中濱から高知城下に呼び戻されます。萬次郞の西洋知識を高く評価した山内容堂は、萬次郞を新参の徒士格の武士として取り立て、出身地「中濱」の地名から「中濱萬次郞」を名乗ることを許し、土佐藩の伝統的武士の学び舎である「教授館」の教授に任命します。
後に幕末の混沌とした時局に活躍する土佐藩の後藤象二郎や三菱財閥創始者の岩崎弥太郎も、中濱萬次郞が熱く語る世界情勢、産業、貿易、物産管理、文化、英語、造船学、測量術、天文航法、捕鯨業等々の近代国家へ脱皮するための授業を受けています。
土佐藩校 教授館址 土佐女子高等学校辺り (WEBより拝借)
「中濱萬次郞」は、教授館での授業の他にも、藩主 山内容堂の命を受けて、長崎で帆船「大鵬丸」の購入や、上海に出向いて25万$(15万5千万$説もあり)の英国製スクリュウ推進の蒸気船「Shooey Fe Koong」(夕顔丸と改名)を購入しています。
後に坂本龍馬と後藤象二郎が纏めあげた「船中八策」は、長崎から兵庫に向う夕顔丸の船内だったそうですが・・・龍馬は五ヶ月後に京都の近江屋で暗殺されています。
「Shooey Fe Koong号」➡「夕顔丸」と改名 659屯 全長:65.8m
土佐藩士として国内外で活躍した萬次郞教授の俸禄は、当初の二人扶持から「五石二人扶持」(8.6石)に昇級していました。歴史学者 磯田道史氏による当時の購買力を加味した換算によれば、年収約258万円(8.6石 × 30万円 )に相当するそうです。
中浜万次郎に対する江戸幕府の評価は、万次郎を直接取り調べた長崎奉行 牧志摩守が江戸の幕閣に申し送った「萬次郞の英邁さは国家の用となるべき ものなり」の報告書や土佐藩内での目覚ましい働きぶりの情報もあって鰻登りに高まります。
1853年10月14日(嘉永五年)、江戸幕府の幕閣は、極貧の漁師出身の土佐藩士萬次郞を直参旗本の待遇で江戸に招聘することを決定します。中浜万次郎の海外の最新技術や知見を取り込むための異例の措置でした。
江戸での中濱萬次郞の働きは次回にしたいと思います。












