安岡正篤著『活眼 活学』より「知識・見識・胆識」について | 【大阪市 平野区】山岡建設社長の幸福共創物語~みずから明るい未来へ~

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創業大正15年、会社設立昭和30年。大阪市平野区で水道工事業をメインに土木、リフォームと事業を広げています。代表の山岡建設社長が、ジャズやロックなどの音楽の話や下手なゴルフの話とほんのすこし仕事話を通じて日々歩み続ける物語です。

お元氣様です。

皆さん、昨夜は如何お過ごしになられたでしょうか。

安岡正篤氏の著書の中に『活眼 活学』があります。

その中に、『知識・見識・胆識』について書かれた項目があります。

少しご紹介させていただきます。

知識なんていうのもは、そのもの自体では力になりません。
知識は理論と結びつくわけですが、、知識、理論というものは、腹に一物があればどうにでもなるもので、「泥棒にも三分の理」という有名な言葉があります。
また理論には理論闘争というものがあって、例えばソ連と中共の理論闘争は有名です。
同じマルクス・レーニン主義を標榜しながら、徹底的に両国は闘争したわけであります。
(中略)知識より見識が必要であると申しました。
知識と見識は似ているようですが、これは全く違います。
知識というものは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られます。
学校へ入って講義を聞いておるだけでも、あるいは参考書を読むだけでも得ることができます。
しかし、これは人間の信念とか行動力にはなりません。
知識というものにもっと根本的なもの、もっと権威あるものが加わりませんと、知識というものも役に立ちません。
それは何かと言えば見識であります。
(中略)事に当たってこれを解決しようという時に、こうしよう、こうでなければならぬという判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟り等が内容となって出て参ります。
これが見識であります。
知識と見識とはこのように違うものです。
ところが、見識というものはそういう意味で難しいものですけれども、この見識だけではまだ駄目で、反対がどうしてもあります。
つまり見識が高ければ高いほど、低俗な人間は反対するでしょう。
そこでこれを実行するためには、いろいろの反対、妨害等を断々乎として排し実行する知識・見識を胆識と申します。
つまり、決断力・実行力をもった知識あるいは見識が胆識であります。
これがないと、せっかく良い見識を持っておっても優柔不断に終わります。

今日の学校教育は基本的に知識を得るという教育をしていると思います。

しかし、知識だけを詰め込んでいても何の役にも立ちません。

そんなものはパソコンの方が得意分野です。

我々人間が大事なのは、見識であり、さらに高次化された胆識が大事なのだということを安岡正篤氏は仰っておられます。

特に経営者にとって、日々の活動は色々な障害が待ち受けています。

それを乗り越えていくためにも知識を見識に、見識を胆識にまで高めていかなくてはいけません。