お元氣様です。
昨日のブログで忘年会のことについて書かせていただきました。
今日は無礼講について。
昔は飲み会の席などで、“今日は無礼講だ~!”と言ってハメを外す若手社員がいて、上司が苦い顔をするという場面がありました。
最近の飲み会ではどうなのだろう?
と思いつつ無礼講の起源を調べてみました。
太平記において、後醍醐天皇側が鎌倉幕府の討幕を図るため、身分を越えた密議を行うため、無礼講と称した宴席を行ったことが記されている(正中の変)。
参加者は烏帽子や法衣を脱ぎ、献杯においては身分の上下を取り払い、薄着の17~18歳の美女10数人に酌をさせ、山海の珍味と酒を尽くし、歌い舞うというものであった。
これが無礼講の起源とも言われる。
江戸時代に成立した古典落語の八五郎出世では、無礼講だからと言われて羽目を外しすぎる人物が描写されており、現在と同様の意味で無礼講という言葉が使われている。(ウィキベキアより引用)
では、現代における無礼講の本質って何なのだろう?
『お互いに胸襟を開いて、お互いに理解し合うことで人間関係を深めていく。』
そのあたりにあるのかなと思います。
その形式的言葉が無礼講ということになるのでしょうか。
そのようにとらえると、上司の気持ちも汲取ることができます。
15年ぐらい前に、サントリーが『イヴニング親父』というテーマで短歌を募集しました。
その当時、親しくしていた方々と短歌を応募することになり、私も応募しました。
すると、、、短歌の知識もない私の作品が入選し、ウィスキーの『響』を賞品としていただきました。
その時の短歌が
“無礼講 そんな言葉に 乗せられて いまだに ヒラのイヴニング親父”
短歌というより川柳みたいですね。
若手社員の皆さん、無礼講の言葉にはくれぐれもお気をつけてくださいませ。
今日は、無礼講とは関係のないグローバー・ワシントンJrをどうぞ。