(前回より続く)

いよいよラオスともお別れです。

ビエンチャンから陸路国際バスでタイ・東北部イサーン地方の北部の中心地市・ウドンタニに向かいます。



国際バスと言えば聞こえは良いですが、切符売り場はこの様な感じです。

昨日事前に切符を買おうとバスターミナルの売り場に出かけたのですが、当日売りしかしないとの事。






@80バーツ(320円)です。ラオスキップで払ったら、後で気がついたのですが、レートでかなりぼられていました。まあ目くじら立てても仕方がない。




ラオス各地やバンコク行きもあります。




バスターミナル これでも首都の中心部のターミナルです。



ローカル路線バスは日本の援助。下水管のマンホールや道路等細かいところに日本の援助のサインがかなり目につきました。




先発のノーンカーイ行き。今回ノーンカーイは飛ばします。




そしてこれがウドンタニ行き。



定刻10時に出発。


30分程で、フレンドシップ・ブリッジに到着。


ラオスの出国手続き。ラオス人と外国人で窓口は違う様だが、表示はないので、バスの乗務員の指示でカウンターに並ぶ。



どういう訳か、イミグレのオフィサーに20バーツ渡さないといけない。無いと言ったら、一万キップに負けてくれた。金額は僅かだが、非常に悪い習慣👎。





待っていた同じバスに乗り込んで、メコン川のフレンドシップ・ブリッジを渡ります。


真ん中は線路です。調べてませんが、ただ橋を渡るだけであまり意味の無い路線です。


左側にラオスの国旗。まだラオス側。





真ん中を越えるとタイの国旗に変わります。





タイのイミグレです。



空路の入国では記入する必要のないイミグレカードを書く必要があり、イミグレに並びながら記入。


問題なくタイに入国できましたが、相方のリュックがいつのまにか開けられていました。幸い取られたものはなかったものの、一つ間違っていたら大損失を被るところでした。


並んでイミグレカードへの記入に気を取られているところを突いて来た、しかも街中ではなく、国境のイミグレでという、ちょっと考えられないパターンです。






タイ側は、緑が多く埃っぽくありません。




1時間でウドンタニのバスターミナル(1)へ到着。


タイの普通の田舎町です。




嫌いなショッピングモールが神々しく見えます。



写真はありませんが、年配のアメリカ人がたくさんいる街です。


ウドンタニはベトナム戦争中の北爆の拠点空港があった町。シエンクワーンを爆撃していた米軍機は、ウドンタニや東部のナコンパノム等から出撃していたそうです。


以前友人の故郷のナコンパノムへ行った時は、長い立派な滑走路があって驚きました。バンコクから一日一便小型機しか飛ばない田舎町に何故と思ったら、ベトナム戦争の置き土産との事でした。


日本の高速道路より車線が多い国道が一直線に田舎に整備されているのも、多分ベースへのロジ確保で米軍が建設したのでしょう。



ビエンチャンまとめ:


見るべき観光地は、タート・ルアン、凱旋門の二つは外せない。後はワット・シーサケットとワット・ポーケオくらい。一日あれば十分、又はルアンパバーンやシエンクワーンへの乗り継ぎの時間にタクシーをチャーターして回れば良い。


ホテルは、旧市街にたくさんある。今回はラオプラザホテルと言うここでは高級の部類に属するが実態は⭐️3のホテルに宿泊。空港での無料ピックアップが心強い為。安いホテルやゲストハウスは相当安いはず。


レストラン


コロナの影響でかなりの店が潰れてしまっていて、ネット情報が殆ど役に立たない。行って見ても店が無い。観光客の多いエリアに宿泊したのに食べるところには苦労しました。


ラオス料理: クアラオ。有名店。夜7時以降は伝統ダンスがあるが、中国人団体が一緒の可能性高くなるので、5時〜7時が良い。


日本食: Ango 日本人夫婦経営。ここはラオス料理のアクセント付き日本食。情報交換もできる。


カフェ: 


Benoni ここのバゲットやケーキは美味しい。サンドイッチ、麺や簡単な軽食もある。質素だが落ち着く店。


JOMA カナダ人経営。ルアンパバーンに2店、ビエンチャン、ハノイ、プノンペンにもある。まあまあ。


タクシーの配車アプリ入れてなかった(そもそもSIM 買ってない)ので、市内の移動が割高。路線バスはあるが利便性ゼロ。



余談:


ビエンチャンで、出来れば行きたかった店があったのですが、既に無くなっていました。


シンガポール時代にお世話になった日系工場の購買担当の年配の日本人で、池◯さんと言う方がおられました。大柄で目付きが鋭く、一見してタダ者ではないと感じさせる人でした。


第二次世界大戦中バンコク生まれ。終戦後収容所暮らしの後、確か静岡へ引き上げ。


高専で電気技師の資格を取って上京。英語を習いに行っていたYMCAでビエンチャンのアメリカ大使館で電気技師の求人を見て応募。採用されてラオスで米軍の下で仕事をする事に。


当時は、インドシナ戦争の真っ只中で、池◯さんも何度か危ない目に遭ったとの事。


地方の小さなベースの仕事に赴くが、宿泊施設がいっぱいで、基地の隅の草原にテントを張って宿泊。その夜にパテト・ラオの夜襲があって、彼はジャングルに逃げ込んで一夜を過ごし,朝ベースに戻るとほぼ全滅していたと、


ビエンチャンが陥落した時、米軍の家族が孤立したのを、弾丸飛び交う中助け出して勲章をもらったといった話を覚えています。


その当時の「戦友」の日本人がビエンチャンで日本のケーキ屋をやっていて、退職後はそのケーキ屋の仕事を手伝うとビエンチャンに行かれました。しかし、デング熱に感染して、ラオスでは医療施設が良くないので、タイのノーンカーイの病院に搬送されるも亡くなってしまいました。


このケーキ屋に行きたかったですが残念ながら数年前に閉店したとの事でした。この「戦友」の方が、肌身離さず日本刀を持ち歩いているという、かなり怖そうな人らしいのですが、どんな経験されたのか聞きたい/池◯さんの昔話もしたかったのですが、叶いませんでした。


(続く)