釈迦が座禅をして悟りを得た
それを見習い達磨も悟りを得ようと座禅をした
各々が悟ったことは
釈迦はこの世で見ることは無くなったと悟る
達磨は座禅が終わりその場を立つと弟子たちに悟りを問われ 何も得なかったと そして我は何者にも成らずと語る
後世の弟子たちはこのような情景を活字に表そうとした
「如是我聞」(我はこのように聞いた)と経文は始まる
直接聞いた者は居ないのであるが、例え話として生命の尊さと神々しさを説く
今世はダメでも来世がある
これはなんの為にこのような事を説いたのかは時代背景にある
今の不幸は過去世の業 今世は罰を受け 来世に期待 まだ来ない未来に託す
これはカースト制度の不幸から逃れるための今を生きる気休めに 釈迦や達磨を利用した
と云う事なのだろうと…
そして経典は難解なものにして 考察も難解なものにして凡夫じゃ理解出来ないものとした。
それは出家者しか解らぬと在家に説く
然し このようなシナリオはもう通用しない時代なのだろう
と思った😂 知らんけど🙄
追伸として 座禅や瞑想に励むと ある共通することがある 様々存在する 座禅 瞑想の先達者達は
ある事を言う
「目の前に物凄く眩しい大きな光の玉が現れた」
と語る先達者が多い事に驚いた
霊や神仏では無いようだ