日置俊次歌集『ダルメシアンの壺』より
1年前の記事ですが、私の歌集『ダルメシアンの壺』から歌を引用しています。
これは自分でも好きな歌集ですが、だれからもなんの反響もなく、驚きました。
私の歌はたしかにわかりづらいことは事実ですが、難しい言葉はまったく使っていません。
まずダルメシアンというものが多くの人には理解できないようでした。
それはそうかもしれません。
私も一緒に暮らさなかったら、ダルメシアンという犬を理解していなかったと思います。
それから、風聞として聞いたことなのですが、ダルメシアンが青い目をしているという時点で、私が嘘をついていると考えてしまう視野の狭い歌人が多いように思いました。
しかし、それにしても、私の歌の、作品としての完成度は高いので、それが理解されないということはなぜかと考えさせられました。
結論としては、要するに理屈はどうあれ、私の歌は理解されないということです。
私の発想や考え方は、どうも普通ではないらしいということです。考え方や感性が変わっているので、理解が難しいのです。
一般の人に理解してもらうためには、その都度、かなり長い説明がいるので、それは私が建設中の理想郷であるヒオキワールドが完成して、それから考えるしかないということです。
犬に関してですが、いまブログなどで、ダルメシアンの写真などを精力的に掲載しています。
こうすると、ダルメシアンというものが実在することを、すこしだけ歌人たちが信じるようになります。こういうところから始めないと、私の歌がリアリズムの歌であることが分かってもらえないということです。
はっきり言って、犬に関心のある歌人は少ないです。話しているとわかるのですが、犬嫌いの人も含めて、そういう自分の感性が正しいと思い込んでいる人がいます。正しいも正しくないもありません。視野が広いか狭いかというだけで話です。
私は犬が好きで、犬を通して、ネコが好きな人も理解できますし、サルが好きな人も、ウマが好きな人もシカが好きな人も理解できます。犬のほかにも鳥が大好きです。鳥と話ができると考えています。
「ケシ来いクロクチ来い」という種子島の話があります。これは同様の話が九州などにも残っています。猟師が大事にしていた犬ケシとクロクチが、異空間に消えてしまいました。
村長は「もう犬は諦めるように」と忠告しましたが、狩人は毎日毎日「ケシこい!クロクチこーい!」と叫びながら、山の中をさ迷い歩きました。
そのうち、また異空間に入り込み、ケシとクロクチの遺体を見つけました。猟師はショックを受け、病にかかって死んでしまいました。
この猟師は変わり者という扱いになっていますが、私にはこの猟師のことがとてもよくわかります。涙が出てきます。
昨年の記事を再掲します。注記しておきますが、なぜ志賀直哉が出てくるのかと批判をはじめ、歌の流れがさっぱり理解できない人がいるかもしれません。ルメ、留女というのは、志賀直哉の祖母の名前です。直哉をとてもかわいがった祖母です。
日置俊次歌集『ダルメシアンの壺』より引用します。
青山の墓の直哉のさびしさに靠(もた)れさす馬酔木のほのじろき房
心こめて直哉を語る教室に立ち見の学生まだ湧きやまず
その仔犬もらひ手をらずわが家へとたどりつきたり 右眼が青い
ダルメシアンの片眼青きは「失格」と定めたりいつかたれか知らねど
あさがほの露の青さの眼をひらき犬は寝足りぬわれの口舐む
ダルメシアンが座すとき黒きぶちの散る白壺となる首かたむけて
姫のごと名付けし仔犬「ダルメシア」知らずいつしか「ルメ」と呼びをり
淡く笑むルメはくちびるまでまだらこの壺に詰めむわれのまごころ
まだらごとルメは大きくなりたれどルメのままなり瑠璃いろの眼は
たましひで語る教壇さむざむと底無し沼のまんなかにゐる
つひに起つことのかなはぬわれの頰ルメが舐めをり青き顔して
「なんと云つても、もう祖母だけだ」と書く直哉われもひそかにルメだけと思(も)ふ
わが体には壺がひしめく眼と臍(へそ)を除きて打つと鍼師は断ず
皆様のご健康をお祈りいたします。
そして皆様に、すばらしい幸運や喜びがやってきますように。
いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。