死を看取るということ | 日置研究室 HIOKI’S OFFICE

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作家の日置俊次(ひおきしゅんじ)が、小説や短歌について語ります。
粒あんが好きですが、こしあんも好きです。

 

  死を看取るということ

 

 唐十郎の訃報を聞き、一つの時代が終わったのだという気がしています。私も花園神社に、紅(あか)テントの芝居を見に行ったことがあります。

 ご子息の大鶴義丹さんは、舞台初日で、父を看取れなかったということですが、いかにも演劇一家という感じがします。

 この死に際に看取るということはもちろん絶対という話ではなく、それぞれの家族にそれぞれの事情があるでしょうから、看取れないという場合もあっていいと思います。唐さんなら、絶対に舞台優先だというでしょう。

 この現代社会では、看取るということはなかなか難しい話です。コロナのときには、患者に近づけず、看取ることもできなかったケースがたくさんありました。これはどうしようもないところがあります。

 古谷円歌集『ひきあけを渡る』で、父上を看取る印象的な歌を読んだところなので、なおさら、そんなことを考えさせられました。

 

 そこで自分も振り返って考えたのですが、私は昔、父と母の死をそれぞれ看取ることができました。遠いところに住んでいた父と母は、二人ともそれぞれ別の時期ですが、病院で亡くなりました。私はその場にずっと詰めていたので、しっかりと父、母に寄り添うことができたのです。

 また、愛犬のルメは昨年亡くなりました。ずっと介護を続けていましたが、しっかり看取ることができました。できる限りの介護をし、死んでゆくルメを抱きしめてキスをすることができました。

 まず看取るということができたことは、やはり大きい事件でした。その後、父母もルメも、葬儀で遺体を焼き、骨になるまで付き添い、死というものをはっきり認識することができました。

 その経験が今でも私を支えています。毎日読経を欠かしません。

 ルメのことはまだ忘れられず、涙が止まりませんし、ふらふらと公園に出てルメの姿を探したりしていますが、死んだということはわかっているのです。私は弱くて鈍(のろ)いので、回復に時間がかかるだけで、半年ではまだなかなか割り切れませんが、それでもルメは天界で元気に走り回っていてくれればいいと思っています。

 

 これはあくまで生者としての、私の視点から申し上げている話です。看取ることができなければ、弱い私はいつまでもふらふらとして落ち着きを取り戻せなかっただろうと思います。いまでも私は優柔不断で弱いのですが、それでも看取ったという経験によって、根底では支えられているのです。倒れないで生きていられるのです。

 また神様が、私に看取ることをお許し下さったということは、そうした私の弱さをカバーできるように考えてくださったからだと思います。私は心や感情が動かされやすいので、何かあるとそのショックをいつまでも引きずります。とても回復に時間がかかります。

 私の個人的な思いとしては、とにかく看取ることができてよかった、幸せだったと思っています。また神様にも感謝しています。父母やルメも、幸せに感じてくれたかどうかはわかりませんが、心を込めて葬儀をし、今も供養を続けています。

 

 父母とルメを看取ったということが、私の生涯における幸福というものの象徴になるのではないかと思っています。

 

 特にルメは、私の命の一部であるように考えて、一緒に食べて一緒に歩き一緒に寝ていました。そのルメが死んで、自分のある部分を喪失したような気持を、私は今ゆっくりと癒そうとしてます。ルメと最後まで一緒にいられたという思い出が、その癒しの中心的なエネルギーとなると思います。

 

 これはほかの人には何でもないような内容に見えるかもしれませんが、大鶴義丹さんの話を聞いて、そんなことを思い、大切なことだと考え、ここにメモをしておきます。

 以下、報道から引用します。

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大鶴義丹 父・唐十郎さん死去 看取れず 初日舞台に出演中で間に合わず「最期まで粋な演出をする父」

配信

 

スポニチアネックス

<大鶴義丹囲み取材>唐十郎の訃報を受け、舞台終了後に囲み取材を行った大鶴義丹(撮影・松永 柊斗)  

 俳優の大鶴義丹(56)が5日、都内で会見を行い、4日に急性硬膜下血腫のため都内の病院で死去した劇作家で父親の唐十郎(から・じゅうろう、本名大鶴義英=おおつる・よしひで)さん(享年84)について語った。

 唐さんは1日午前中に自宅で転倒し、中野区内の病院に緊急搬送されていた。

 大鶴は舞台「浅見光彦シリーズ『後鳥羽伝説殺人事件』」が東京・渋谷伝承ホールで4日に初日を迎えていた。同舞台の5日昼の部にも出演。その後、報道陣に対応した。唐さんが亡くなったのは4日午後9時1分。

「因果と言いますか、芝居が終わるのが9時過ぎだったので父を看取ることができなかった」とポツリ。「異母きょうだい2人は看取っていて、(大鶴自身は)30分後くらいに到着した。体温が少し残っていた。みんなで芝居の話をしながら見送ったような感じでした」と明かした。 

 そして「まさに舞台の初日が終わった時間に亡くなった。死に目に会わせてくれないのは、最後まで粋な演出をする父だなと思いました。芝居を絶対に完結させなきゃいけなんだと、最後の死の瞬間をもってまで、教えてくれる演技人だと思いました」と偉大な父親を悼んだ。  

  唐さんは1940年(昭15)2月11日生まれ、東京・下谷万年町出身。明大文学部演劇学科卒。63年に「シチュエーションの会」(64年に劇団「状況劇場」に改名)を結成し、67年、新宿花園神社で“紅テント”公演を行う一方、根津甚八、小林薫、佐野史郎ら多くの俳優を輩出した。

 大鶴は唐さんの演出は受けたことがなかったという。「一人っ子の長男だったので優しく甘やかしてくれていたけど、父の求めるパフォーマンスに及ばない時は何も言わない。そういう意味では厳しい人ですね。変な対抗心を持たず、父の演出の芝居を出ておけば良かったなという後悔はある。父の求めるものにはなかなか到達してなかったのかな」とも振り返り「うちの父、唐十郎はとにかく芝居が好きで、一番の弔いは芝居をやっていくこと」とした。

「4月末までずっと健康というわけではなかったけれど、突然急変した。いろいろ思い出しました」とし「家が稽古場だったので、父親が芝居している姿、芝居を作っている姿をずっと見てきました。『三度の飯を食べるように芝居を作り続けたい』と話していて、芝居しかなかった人なのかなと思います。意外と人間らしい部分を見せないタイプの父でした。大鶴義秀より唐十郎の姿を見せる父だった」としのんだ。

 唐さんは私生活では、67年に状況劇場の看板女優で、個性的な演技で「アングラの女王」と評された李麗仙さん(享年79)と結婚。68年に大鶴が誕生。88年に離婚したが、2021年に李さんが亡くなった際に義丹は「父・唐十郎とは離婚しましたが、最後まで盟友としての親交はありました」と明かした。唐さんは元妻の訃報に憔悴していたという。  89年に再婚。51歳にして長女で女優の美仁音を授かった。93年には次男で俳優の大鶴佐助が生まれた。歌手のマルシアは長男の元妻にあたる。 

 ネット上でも惜しむ声が多く上がる中、同じくアングラ演劇をけん引した寺山修司さんと同じ命日ということが話題になった。寺山さんは歌人として活躍し、1967年に劇団「天井桟敷」を結成。唐さんとはライバルとしてしのぎを削った。1981年5月4日に死去した。

 

天天快樂、萬事如意

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