墓場に幽霊なんか居ない事実 ― 幽霊が見える母4 岩谷氏のブログから | 日置研究室 HIOKI’S OFFICE

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作家の日置俊次(ひおきしゅんじ)が、小説や短歌について語ります。
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  墓場に幽霊なんか居ない事実 ― 幽霊が見える母4 岩谷氏のブログから

 

 

 

 天才写真家岩谷薫氏のブログで、幽霊の見えるお母様のお話がよくでてきます。その新しい記事が出ましたので、リブログします。

 墓には霊が少ないというのは、その通りだと思います。盆踊りや渋谷の交差点などは霊があふれていますが、墓地にはそういう活気はないと思います。

 ただ、これは例外的な話ということになるかもしれませんが、それでも霊はどこにでもいるので、墓にもいると思います。なぜかというと、静かなところが好きな霊もいるのです。誰かにすがろうとして人混みが好きで、そこで迷っている霊もいますが、へそ曲がりで静かな場所での散歩の好きな霊もいます。

 私は森の中をよく歩きますが、時々見かける人影が霊ではないかと思えることがよくあります。私は霊は見えませんが、声が聞こえたり、感覚で感じることがあります。ここはよくたくさんの老人が毎朝散歩しており、亡くなってからもお散歩をしているのだとわかることがあります。ざわざわとお話をしていることもあります。死んだことに自分でまだ気づいていない霊がいます。毎日森を歩いていて、死んでしまったら、私も多分、霊として、愛犬のルメを連れて森を散歩するのではないかと思います。長年の習慣というのは恐ろしいものです。

 森を歩いていて、ルメがよく、あっちに行くのは嫌だとか、今日はこっちに行くのは怖いと言いますので、行くのをやめることがあります。何かいるのだと思います。森の中でも道を変えることがありました。変えてよかったと後から思うことも何度もありました。これは感覚なので、説明はできません。

 私は、墓地が好きで、墓地もよく歩きます。墓地は散歩にはもってこいです。そして、あちこちの墓石に腰かけている影を感じます。どうも埋葬されている人とは違う人たちが座っていることがあるようです。これも、あくまでも感覚なのでよくわかりません。青山霊園だとよく浮浪者がいるのです。生きている人ですが、関係者ではありません。なかにはお供えなどを持っていってしまう人がいます。そんな感じです。埋葬された人がいつもその墓地にいるかというと、そうでもないようです。

 墓地にもよるのでしょうが、青山霊園や染井霊園は伝統があり、場所が都心ですし、人通りもけっこうありますので、田舎の墓地とはちょっと違うのかもしれません。

 餓鬼は食べ物飲み物を禁じられて飢えていますが、お墓にかけた水は飲んでもいいので、墓石に水をかけると寄ってくると思います。私はそのつもりで水をかけています。墓に眠っている人に施すというより、霊一般にほどこすのが供養ということです。お線香も同じです。お供え物を浮浪者が持っていくのは、ある意味では供養につながるのかもしれません。

 岩谷氏は土葬か火葬かという点にも言及しておられます。フランスは土葬が中心なので、墓地には幽霊が多くいるような気がします。私の郷里にも土葬の習慣を持つ地域があります。神道の地域は土葬ですね。台湾も土葬が多いですね。腐らないように薬に漬けた高額紙幣(紙銭ではない)を冥銭として一緒に埋葬したりします。かなり時間がたってから、立派な墓に移し替える儀式をすることが多いです。例えば十年前の紙幣の束が見つかりますが、これはかなり猛毒なので、手で触らないようにします。盗難除けの意味もあるのでしょう。紙銭のように燃やしません。

 霊が見えるということについて、いつも岩谷氏のブログより学ぶところが多いのですが、岩谷氏は羅両峰に触れておられます。そして以前は芥川龍之介にも触れておられたので、なるほどと思い、これは自分の頭を少し整理しておきたいなと思いました。

 

 芥川龍之介の「支那の画」という文章の中に、「鬼趣図」という章があるので引用します。

 

 天津(てんしん)の方若(はうじやく)氏のコレクシヨンの中に、珍しい金冬心(きんとうしん)が一幅あつた。これは二尺に一尺程の紙へ、いろいろの化け物を描(か)いたものである。

 羅両峰(らりやうほう)の鬼趣図(きしゆづ)とか云ふのは、写真版になつたのを見た事があつた。両峯は冬心(とうしん)の御弟子(おでし)だから、あの鬼趣図のプロトタイプも、こんな所にあるのかも知れない。両峯の化け物は写真版によると、妙に無気味(ぶきみ)な所があつた。冬心のはさう云ふ妖気(えうき)はない、その代りどれも可愛げがある。こんな化け物がゐるとすれば、夜色も昼よりは明るいであらう。わたしは蕭々(せうせう)たる樹木の間(あひだ)に、彼等の群(むら)がつたのを眺めながら、化け物も莫迦(ばか)には出来ないと思つた。

 何とか云ふ独逸出来(ドイツでき)の本に、化け物の画(ゑ)ばかり集めたのがある。その本の中の化け物などは、大抵(たいてい)見世物(みせもの)の看板(かんばん)に過ぎない。まづ上乗と思ふものでも何か妙に自然を欠いた、病的な感じを伴(ともな)つてゐる。冬心の化け物にそれがないのは、立ち場の違つてゐる為のみではない。出家庵粥飯僧(しゆつけあんしゆくはんそう)の眼はもう少し遠方を見てゐたのである。

 古怪な寒山拾得(かんざんじつとく)の顔に、「霊魂(れいこん)の微笑」を見たものは、岸田劉生(きしだりうせい)氏だつたかと思ふ。もしその「霊魂の微笑」の蔭に、多少の悪戯(あくぎ)を点じたとすれば、それは冬心の化け物である。この水墨の薄明(うすあかり)の中に、或は泣き、或は笑ふ、愛すべき異類(いるゐ)異形(いぎよう)である。

 

 これが芥川の文章ですが、かなり難しいです。芥川の中国の文物に関する知識にはいつも舌を巻きます。この文章には重要な論点が多いです。ただ、よくわからないところがあります。冬心も羅両峰も出家はしていなかったと思いますが、芥川は「出家庵粥飯僧」だと言っています。粥飯僧は、僧庵や寺で食事を作って配膳する役の僧のことです。今、揚州に八怪記念館があり、そこは金冬心こと金農が晩年を過ごした西方寺という寺院のことですが、彼は僧になっていたわけではないと思います。

 これは、先に答えを言っておけば、「出家庵粥飯僧」というのは、冬心の晩年の号なのです。

 羅聘も「花之寺僧」と号しているので紛らわしいです。こういう冗談が、芥川にはわかっていたのでしょうか。

 なぜ揚州に芸術家が集まったかというと造塩で儲けた金持ちが多く、みんな芸術家のパトロンになったからです。揚州のある江蘇省は海に面した地域です。海塩を生産し塩豪商が活躍しました。中国は海から離れた場所が多いですから、塩が大切です。北の方に海岸線を上っていくと交通の要衝である天津があるので、天津の人が冬心の絵を持っていてもまた不思議ではありません。

 方若は、当時の天津の日本租界での有力者であり、天津を訪れた多くの日本人と交流を持ちました。芥川は1921年3月下旬から同年7月にかけて、大阪毎日新聞海外特派員として、上海、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、北京、大同、天津などを歴訪しました。7月10日に北京を発って夜に天津に到着、21日に帰国の途につくまで天津に滞在しました。

 揚州八怪のひとたちは、好き勝手やっている自由人の芸術家が多く、放浪の人が多いと思います。

 今日は、まず問題にする人名をすこしだけ整理します。金冬心は金農、羅両峰は羅聘のことです。号がたくさんあるのでこれも分かりにくいですね。

 金農は「鬼趣の図」 を描いています。これが彼の弟子である羅両峰の「鬼趣図」に大きな影響を与えたということです。

 

金冬心(きんとうしん、1687年~1764年)

 清代の詩人、書家、画家。名は農。字は寿門。冬心はその号であるが、ほかに多くの別号がある。浙江省杭州の人。初め詩人として名を出し、諸方を歩いて金石文を研究して隷書や楷書に特異な作風を生み出し、書家として一家をなした。画は余技で、50歳を過ぎてから描き出した。晩年にかけて、個性の強い独特の洒脱味をもつ画を完成していった。山水、竹、梅、馬、仏像などを描いたが、とくに墨梅が名高い。冬心の号でよく知られるが、曲江(きょっこう)、昔耶(せきや)など別名も多い。一生官に就かず、各地を旅し、書画を売って生活した。30代より揚州に遊び、鄭燮、高翔、華嵓らと交わり、晩年はこの地に住んで、没した。揚州に集まった8人の個性的な画家、いわゆる揚州八怪の第一にあげられる。晩年の弟子に羅聘がいる。

 

羅聘 (らへい、1733年~1799年)

 字は遯夫(とんふ)、号は両峯(りょうほう)。揚州(江蘇省)の人。「揚州八怪」中の最年少者。夢で前世において「花之寺」の主座であったことを知り、「花之寺僧」と号した。金冬心の弟子で、金冬心没後その遺集を出版した。羅聘は白昼に魑魅魍魎を見たといい、一連の「鬼趣図」を描いた。それは乾隆(けんりゅう)の文人たちに愛好され、ほかに道釈、人物、山水、花卉(かき)などもよくした。画には均質な線による白描画的なものから、滲みを主とした水墨画風のものまで幅広い技術が駆使されている。揚州八怪とは金農、黄慎、李鱓、汪士慎、高翔、鄭燮、李方膺、羅聘である。彼は白昼に鬼がみえると自称して「鬼趣図」を描いた。享年66歳。

 

 ある辞書的サイトから説明を引用しました。これがだいたいわかっていることですね。羅聘は西方寺に出入りし、号で僧を名乗っていますが、僧侶ではないのです。前世では僧でした。

 それから冬心が絵を描きだしたのは50歳ではなく、60歳を過ぎてからだと思います。先ほども言いましたが、しばしば西方寺に住んでいましたが、僧侶をしていたわけではありません。辞書や辞典類では、要するによくわからないということです。

 ともに多才な人ですが、今日は主に「幽霊画」を描いた画家として羅聘を考えてみましょう。

 

 羅聘は生まれつき陰陽の目を持っていたと言います。白昼に幽霊を見ることができたそうです。これは生まれつきなのです。倒れて頭を打ったとかそうことではないようです。

 「鬼趣図」は彼の最高の作品だと言われます。この幽霊たちにはかなり世俗のイメージがあり、雨を嫌いますし、貧乏であったりします。

 

 羅聘が参考にしたという、金農の幽霊の絵というものはなかなか見つかりません。普通の絵ならあるのですが、幽霊の絵がサイト上に見当たりません。たぶん私に見つからないように絵が逃げてしまっているのだと思います。

 金農(冬心)の普通の絵というものはこんな感じです。

 

 

 

 美しいですね。60歳を過ぎて画家になったというところが魅力的です。

 それから、私はあきらめずにずっと努力をつづけて、不鮮明ですが、幽霊の絵を何とか見つけました。冬心の「鬼趣の図」です。

 

 

 あまりはっきりしないのですが、幽霊は何人もいるようです。見つけられますでしょうか。何だか可愛らしいキャラクターにしか見えません。

 

 次に、羅聘「袁枚像」を見ましょう。これは幽霊ではないです。袁枚は詩人です。家族がこの絵を嫌がるので、捨てられないように羅聘に託したというエピソードもあります。

 

 

 さて、幽霊に関しては、今日は羅聘の「鬼趣図」の絵をいくつか例示するだけにします。

 

 

 

 

 これはとても面白いです。芥川が不気味だというのも分かります。いろいろ学ぶことが多いです。今日は少し学問的に考えてみました。こういうすっきりとした説明をしているサイトがどうしても見つからなかったので、とても苦労しましたし、とても不思議でした。とりあえずここで考察を終わりたいと思います。合掌

 

みなさまにすばらしい幸運や喜びがやってきますように。

   いつもブログを訪れてくださり、ありがとうございます。