学歴詐称の歌 自歌自註の美学 リブログのリブログ | 日置研究室 HIOKI’S OFFICE

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作家の日置俊次(ひおきしゅんじ)が、小説や短歌について語ります。
粒あんが好きですが、こしあんも好きです。

 

  学歴詐称の歌 自歌自註の美学 リブログのリブログ

 

 歌人の光野律子さんが、私の記事「自歌自註の美学」をリブログしてくれました。

 簡単に経緯をお話しますと、まず、光野さんが、ブログで次のようなお話をされました。

 自分の経歴が誤解されて広まり、学歴詐称という理不尽な批判を受けているので、その気持ちを歌にした。しかしこの批判について知っていないと、その歌が理解できない。それで、自分のその歌について一言説明したい。

 こういう流れで、お話をされているのですが、そのとき、「自歌自註はしないのが習わしになっているが、自分は少し自歌自註をする」という内容のことを書いておられます。私は、それに対して、自歌自註は大いにやりましょうという意見を述べたのです。

 その記事を、光野さんがリブログしてくれました。この光野さんの記事で改めて気づいたことがありましたので、またリブログします。

 

 光野さんは、「短歌を始めたばかりの人は歌会に出るとまだ歌評される前に「この歌は、、」と説明してしまい、そのとき、自歌自註は控えてくださいとかなり強い口調で司会者にたしなめられるため、一生自歌自註しちゃいけないのかと思いがち」であると述べています。

 それから、「歌会ではないときに、あの歌の意味を教えてほしいと言ったら、「自歌自註はしません(キッパリ)」と言った人もいました。」というお話です。

 そして、「馬場先生がよく歌会で「一体これはどういう意味なのか作者に聞いてみようじゃないか」とおっしゃいました」という指摘もしています。

 

 これはみな、かなり大切なことなので、もう一度考えておく必要があります。誰も教えてくれないので、ここではっきりさせておいた方がいいのです。

 とにかく歌会は時間がないので、自分の歌の解説はするなと強く言われるのですが、これは進行上の必要があるからです。そういう「自分の歌の説明禁止」といった規則が、一般にあるわけではないのです。

 ところがみんなそれを金科玉条だと思い込んでしまい、「沈黙は金」のように考えてしまうのです。ずっと口の中で、沈黙、沈黙と唱えています。

 確かに日本社会では、処世術としては、何も言わないのが最上でしょう。黙っていると人に好かれますし、人格者だと言われたりします。ばかばかしい話です。

 短歌の世界は処世術ではなく、自己表現の世界であり、沈黙が意味をなさない場合も多いのです。

 

 どうしてもこの歌はわからないので、作者に教えてほしいという場合がよくあります。たとえば作品の中に「あのひと」と書いてあった時、「あのひと」っていったい誰なのか、一首を読んだだけでは読者にはわからないことがあります。「これは誰なの? 友人なの? 恋人なの? 恩師なの? 男なの女なの? それぞれの場合で読みが変わってくるんだけど」というケースです。そしてそう言う混沌を作者がしっかり認識しているのかどうかということも知りたくなります。

 

 作者に寄り添って読もうとすることが、現代短歌の約束ですから、作者はどんな考えでその歌を作ったのか、質問が出るのは当たりまえです。そういう質問が出るように歌がつくられているからです。

 

 「自歌自註はしません」といって、説明を拒む人もいますが、それは美学でもなんでもありません。めんどくさいと思っているだけです。ただし作者には、説明をしないでいるという選択権があります。また、作者の言うことがすべてではなく、作者は本当のことを言う義務もありません。作者には無意識で表現している部分があり、自分でもよくわからないことがあるものです。なぜ自分はこんな表現をしてしまったのだろうと、不思議に思うことがあるのです。ですから、作者の言うことは絶対ではありません。

 

 以上の前提において、私は自歌自註の美学を奨めています。説明が可能な範囲なら、質問には説明した方がいいのです。言い訳や自己弁護はだめですが、事実ははっきりさせた方がいいのです。特に悪意による誹謗中傷が生まれるようなら、はっきりさせるべきです。例えば日置はフランスに行ったことがないぞとか、台湾に行ったことがないぞとか、そういう嘘を言いふらす人間が必ず出てきます。これは詐欺師であり、詐欺には立ち向かうべきです。

 

 光野さんのご指摘通り、馬場あき子先生は歌会でいつもおっしゃいます。

 「一体これはどういう意味なのか作者に聞いてみようじゃないか」

 すべてはケースバイケースですが、謎があって、作者に聞いてみないとわからない歌というものがあるとき、それは作者の責任なので、質問に答えなければなりません。妙な誤解が生まれたり、意図的な誹謗中傷があるならば、答えた方がいいのです。

 先ほども言いましたが、作者にはもちろん黙っている権利もあります。質問者がレベルが低すぎるという場合もあります。自分でよく考えようとしないで、なんでも作者に聞けばいいと思うのは間違いです。また作者としては、そこはプライベートな話なのであえてぼかしているということもあります。しかし、もし作者が黙っているのだとすると、それは「沈黙は金」といった美学でもなんでもなく、また自歌自註禁止などという規則によるものではなく、作者のわがままによることが多いのです。

 そういうわけで、誤解を受けるような自分の歌を解説することは、何も悪いことではありません。

 

 さて、ここからは、私個人の話になります。

 私はパリのことや台北のことをしばしば歌に詠みますが、短歌の読者の中でパリや台北をよく知っている人は、そんなに多くはありません。例えば、「台北の地獄谷にあるちいさな廟では」と私が述べても、たぶん全くわけがわからないという読者が多いでしょう。地獄谷って何?と考える読者が大半です。私はそこを狙って歌を作っており、今まで誰も詠んでいない世界を展開させていきます。今まで誰も真剣に詠んでいない素材について、素晴らしい歌を詠む。これは大変に意味のある作業です。そこに新しい空間が開かれていくからです。

 現代では、インターネットなどでよく調べれば、そこがどんな場所なのかは簡単にわかるのです。インターネットには、検索すれば、その場所の映像や、動画がふんだんに出てきます。私としては、質問する前に、自分でよく調べてみてくださいという思いがあります。あれこれ十分によく調べてみて、それでもわからないことについて質問が来るときは、私はお答えしています。とにかくからかってやろうとか、楽をしようとする質問には、お答えしていません。これは美学でもなんでもなく、私のわがままによる話です。

 そのため、私はときどき、このブログで自歌自註をしています。台湾の写真や記録をふんだんにブログに載せています。すぐに説明しがたいような深い話は、個別に口頭でするのではなく、ブログで文章としてみんなに公開した方がいいのです。私が撮影した写真も有力な資料になります。写真はいろいろなことを語ってくれますね。とてもありがたい存在です。

 また私の多くの小説は、私の歌の自歌自註になっています。基本的には、私の歌を理解したいなら、小説を読んでくださいということにしています。小説はフィクションを含んでいますが、事物や風景の描写は、小石一つ、葉っぱ一枚に至るまで、私は現地で忠実に取材してリアルに再現しています。歌を作るときも同じ態度で詠んでいます。

 

 「作者に聞いてみようじゃないか」という思いを読者に起こさせて、その後どうするか、そこまで考えて歌人は歌を作らなければなりません。そのうえで、私は自歌自註の美学をお奨めしているのです。私の小説はその美学の実践です。ブログもよい手段です。そういういくつかの手段は、だれでも手の届くところにあるのです。

 

 私が台北で暮らしていたときに撮影した写真をいくつか並べてみます。日本人が開発した北投の温泉地は、かつて地獄谷と呼ばれていました。今は地熱谷と呼ばれています。しかし温泉を楽しむ習慣のなかった台湾で、ここを温泉地として開発した日本人たちの匂いが、今もこの場所には強くひろく沁みついており、そこには日本への深い郷愁も流れています。それゆえ、もとの地獄谷という名称がふさわしいと考えています。そのため、歌や小説の世界では、私は地獄谷と呼んでいます。たとえば下の写真の看板にある温泉マークは、日本のものです。この温泉マーク一つをとっても、さまざまな激動の歴史がその背景に隠されています。なぜ日本人である私がこの谷の近くに住み、ここを舞台として小説や短歌を作り出しているのか、疑問に思う人もいるでしょう。その答えは、この場所の歴史にあります。地獄谷という名前にあります。

 

 戦後、台湾は戒厳令のような状況になり、思想や言論が弾圧されました。日本語が禁止され、政府は日本の文化の痕跡を消そうと躍起になりました。政治的な意図にまきこまれて、多くの人が命を失いました。長い時間をかけて、今、台湾の人々はようやく思想や表現の自由を勝ち取っています。「地獄谷」という名前一つに、様々な思いがこもっています。そのことは小説の中で詳しくお話しています。

 

 自分の歌の背景に隠されたものを、すべて説明する必要はありませんが、おおまかなところは提示しておくといいでしょう。勉強するつもりのない人や、悪意のある人はそれを読むことはなく、根拠のない批判は続くと思いますが、将来、あなたを歌人として熱心に研究するものが現れたとき、そういう自歌自註は、その人の役に立ってくれると思います。私は作家であり、同時に研究者であるので、こういうことがはっきりと言えるのです。作家も研究者も沈黙していたら、それは作家でも研究者でもなくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日置俊次の長編小説「台湾3部作」の電子版リンクです。3作品は連続した物語です。『地獄谷』は歌集です。↓

 

 

 

 

 

 

皆様に、すばらしい幸運や喜びがやってきますように。

    いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。