さくやこの花 かりん1月号 | 日置研究室 HIOKI’S OFFICE

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作家の日置俊次(ひおきしゅんじ)が、小説や短歌について語ります。
粒あんが好きですが、こしあんも好きです。

 

  さくやこの花 かりん1月号

 

 

 歌誌「かりん」の1月号で、馬場あき子先生が長く連載中の「さくやこの花」を読みました。これは「かりん」のホームページでも公開されている文章なので、ここにリンクを張り、また全文を引用します。

 「さくやこの花」は、馬場あき子先生が、ご自分の歌に解説をしておられる貴重な頁となっています。いずれ一書にまとまるはずですが、毎月、誌面で深いお話を聞けることは、ありがたいことだと思っています。

 

 今月採り上げられた歌は、

 

衛星のごとく互(かたみ)にありたるをきみ流星となりて飛びゆく

                      『あさげゆふげ』二〇一八年十一月刊

 

です。

 岩田正先生と馬場あき子先生が、お互いに適度な距離を取りながら、お互いの思想や趣味を尊重していることがよくわかります。適度な距離を取っているから、相手はいなくていいのかといえば、そんなことはないのです。ちゃんと相手のことを理解したうえでの不干渉です。

 だからこそ、岩田先生がお亡くなりになったことは、ずしりと大きな穴が開いたようなのだと思います。

 岩田先生は、「自分がいるから、馬場が良くなっていったのだ」ということをよく自慢しておられました。それから、お互いにあまり干渉しないとはいえ、岩田先生は、短歌作品を馬場先生に褒められることがあると、「馬場に褒められたよ」と自慢しておられました。こういう、信頼に基づいた距離の取り方であったのです。

 

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 衛星という星を知ったのは女学生のころで、何もすることがない日曜はきまって天文館などの椅子に坐っていた。幼い時から母親がいなかったせいか、独り遊びに馴れていて、友達はいっそ沢山か、独りぼっちかどちらかが好きだった。他家に嫁に行くことになった時、放任主義で育った私を親たちは少し心配していたようだ。私はそんな時、大丈夫、衛星のように、つかず離れず、いい距離を取っていけるから、と言って納得させた。
 そして何とこの関係は夫婦の間にも共有されていった。ありがたいことに岩田も衛星ごのみだったのだ。お互いの領域を侵さない不文律の方針が生涯にわたって貫かれた。音楽好きの岩田につき合って一日中レコードをまわしたり、コンサートに伴われたりしながら、私は一つもその曲名を覚えず、演奏家のちがいにも気づかず、それでもその時の感動はあるていど、岩田の感動に共鳴することはできた。岩田もまた、私のお伴をして能楽堂によく通い、私が舞う舞台につき合ってくれた。
 それどころか、岩田が「抵抗的無抵抗の系譜」だとか、いわゆる土俗論などで孤軍奮闘をはじめた時、私はその材料の一人でありながら、ただの一度も口をはさむことはなく、二人の間の話題にさえもしなかった。その他のことは推測どおりで、一緒に住みながら自由自在に、互いに好きに生きていたことになる。では、本当に一人で生きていたらどうだったか、といえば、やはりこのような人生となることはなかっただろう。
 『ゆふがほの家』という歌集の中に「木星にガリレオ衛星あることの豊かさを恋へば秋深むなり」という歌がある。その頃から衛星意識は強くなったのかもしれない。かかわらず支えているという衛星の自覚は弁解めいているが、岩田が急死したあと冒頭に掲げた歌のような実感が生まれてきた。互いによき衛星だったのだ。自己満足のたぐいだが。

※ ( )内は前の語句のルビ。

歌林の会 | さくやこの花 (karinnokai.net)

 

 

皆様のご健康をお祈りいたします。

   そして皆様に、すばらしい幸運や喜びがやってきますように。

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