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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


本日、これから愚僧が代務しようとするお寺の責任者が事務手続きの為に来られた。

 

開口一番、『立派なお寺ですね。』だった。

 

そう言われるような立派な寺でもない。

 

時間帯が夜だったので、きっと境内にある水銀灯を灯しておいたので立派に見えたのだろう。

 

でも、よく考えれば『住んでいても存在が見えない。』というのもある。

 

つまり、生活感が感じられないのは問題なのである。

 

お寺は、ご門徒さん方に通ってもらってなんぼだ。

 

畳が黒ずんできた-、床がゆるんで来た-、瓦がずれた-。

 

とは言っても、『じゃ-、どれだけこの聞法道場を皆が消耗したのか?』に尽きるのである。

 

使い切ったからこそ補修する意味がそこに生じてくるのである。

 

ただ、古くなったからというのは論外である。

 

そう考えると、生活感は大切っだ。


漢字で、『住むが職』と書いて住職という。

 

まあ、これからが本業かな。

 

 

サンライズ
 


戦後、日本は線引き社会一辺倒に変化してしまった。

 

その原点は、突き詰めればGHQが強要した六三三に及ぶかも知れん。

 

『日本総国民、日本の歴史の事実をもっと勉強しろ!』と言いたい。

 

勿論、愚僧は偏った愛国者でも右翼でもなく、ただの人間であることは言うまでもない。

 

まあ、それは横に置いて、最早、時効なので記載するが、愚僧の次男が電車の中で客が往来できないような状況でふんぞり返って足を組んでいた外国人(言葉が通じず外国人と判明)が居たそうで、その足を下ろさせたところ電車内で乱闘事件が勃発したそうな。

 

傍にいたサラリーマン風の男性客は即座に寝た振りをし、他の多くの男性客も知らんぷりだったそうな。

 

ただ一人、ご婦人が『止めなさい!』と諫めたとのこと。後に、次男曰く、『一番、嬉しかった。』とのこと、

 

なぜ、日本人としてその状況を助けないのだろう。

 

明らかに相手の振る舞いは横暴極まりないのに何故だ。

 

近江八幡から野洲駅までたかが二駅だ。

 

その間、テコンドーの心得のあるような外国人は息子に殴りかかってきたようだが、息子は少林寺の技でねじ伏せ、野洲駅の交番までしょっ引いていったそうな。

 

その後、交番から愚僧に『息子を迎えに来い!』と電話があったが、すでに警察は外国人を保釈していた。

 

息子は、『右の頬を叩かれれば左の頬を差し出しなさい。』というクリスチャン精神の在学生だったので、後の想像は皆さんにお任せするが、親として承服できないものがあった。

 

生徒指導曰く、『過去は過去、これからですよ!』とのこと。

 

何だそれは!

 

その後、愚僧と息子達で相手の自宅に乗り込もうと電話するも、警察から聞いた携帯電話番号は存在しないことが判明。

 

オーマイブッダ、電話番号をしかと控えた滋賀県警しっかりせえ!

 

『過去のことは過去のこと、明日(未来)にすべてを懸けよう。』と言ったところで、当事者は、その時、その刹那が大切なのではないのか。

 

過去は己の栄華でしかなく、明日は不安だらけの未来でしかない。

 

こんなことは、仏説無量寿経にちゃんと記されている。

 

一見、『線引き』と言う言葉は響き良いかも知れんが、自己放棄の何物でもない。

 

 

サンライズ

本日、ある路線の運転手と同席させてもらった。


まあ、その路線は煙を吐きながらもどうにか機関車は動いているようだった。


最も気の毒は、初めてその機関車に乗る乗客だった。

 

何も知らすに乗車しようとする。

 

すると、それを良いことに運転手は乗客を見下げた振りで、『席の御座り方はこうだ。降り方はああだ。』と有りもしない作法を垂れまくる。

 

況んや、乗客はしかと目的を持って乗車しているのである。

 

根拠となる説明も無く、ただ、『昔からこうだ、ああだ。』の一点張りとのことのようだ。

 

そうした、乗客は疑いを持ちつつも、解らないので反論できないのか、バカバカしいので相手にしないのかは定かではない。

 

時には、あり得ない乗車作法も見受けられ、滑稽に写る。

 

見かねて、運転手に注意するも返事はいつも『オールライト』で何の是正もない。

 

こうした沙汰は、我が駅舎にも波及する恐れがある。

 

我が路線の乗客だけは、『あるがままに乗車させたい。』と念じている次第である。

 

 

サンライズ


本日、あるお家の百ヶ日法要に参らせてもらった。


お亡くなりになって百日目の法要だ。

 

さすがに親族だけで、故人の奥さんと娘さんとその孫が参っていた。

 

佛光寺派の声明は難しいが、全員が大きな声で正信偈を称えてくださった。

 

孫娘は最後まで教本を開けていた。

 

小さな手を併せ、念珠を持って合掌している姿に心を打たれた。

 

勿論、親から言われてのことだろうが、とても綺麗な姿だった。

 

どこまで理解できているのか定かではないにしても、今は亡きお爺ちゃんのことを思い浮かべているに違いない。

 

あるがままのすがたである。

 

信仰心はここが始まりなのである。

 

これからも無垢な心でいて欲しいな。

 

 

サンライズ



先日まで拾い猫のムーを預かっていたが、世話が大変なので息子達に返すことにした。

 

息子達の住まいは我が家と繋がっているのだが鳴き声が聞こえない。
とても静かだ。

 

先日まで、ミャー、ミャーと喚きながら足下に纏わりつき、何度か踏みそうになった。

 

ガサつく音すべてがバーチャルハンターなのである。

 

考えて見れば、世話のかからん対象はつまらんが、世話のかかる対象は愛おしい。

 

人間も同じかな。

 

次回、遭遇した時は思いっきり爪で引っかかれるかも知れんな。

 

 

サンライズ
 


目下、北朝鮮状勢は、余談を許さない状況にある。

北朝鮮が核兵器開発に没頭する意図は、それをもって世界の一人前の先進国としての仲間入りがしたいのだろう。

民族的には分裂した国家の統合が第一だと思うのだが、現状は姑息な手段しか見当たらないのだろうな。
 
つまり、情けないことに内に向けた思考よりも、外に向けたアピールが勝っているのだ。
 
逆に言えば、国民はどうなろうとも核兵器を保有しなければ世界に注目してもらえないという想いの裏で、果たして国民はどうなのかな。

今や、アメリカ、ロシアを筆頭に、核保有国は核兵器の生産を抑止する条約に調印し、日本は非核三原則を提唱してる。
 
こうした抑止は、アメリカ、ロシアを筆頭に中国もその渦中にある。

そうした中、国連安全保障理事会において、アメリカは以前にも増してより厳しい制裁措置を提唱しているが、ロシア、中国はそれを是としない。

勿論、ロシアや中国は有事の際の難民流入などの問題があろうけれど、ここは外交的に出来レースをやって欲しいものだ。
 
つまり、アメリカや日本のより厳しい制裁が続く中、安易に制裁に応じない国家(ロシア、中国)として北朝鮮を擁護する立場を明確に誇示しつつ、北朝鮮を安全国家に引導していくべき義務がある。

それは、核やミサイルの原材料を輸出した国家責任において・・・。
 
でなければ、北朝鮮を擁護する意味が生きてこない。
 
 
サンライズ


そろそろ、軽自動車を卒業し普通自家用車に乗り換えようと考えている。

 

若かりし頃、プリスカ2000GT-B、ハコスカ2000GTでブイブイとやらかしていた愚僧としてはそこその車が欲しいのだ。

 

フェラーリ、ランボルギーニは無理にしても、ポルシェ911、ジャガーXJ、せめてハチロクなど、勿論、中古車でと考えているのだが、考えるのは勝手だ。

 

坊守に呟いたら一蹴された。

 

『乞食坊主らしく!』とのこと。

 

そこそこのお爺が、ゆったりとTWOシーターで流すのもなかなかのもんだと思うのだが。

 

結局の所、小型ハイブリッドか。

 

自分的にはサイテーやな。

 

 

サンライズ
 


いよいよ、そこそこ暑かった夏も終わりそう。


もうじき、そこそこの秋が来るだろう。

 

そこそこの中で、コソコソと生かされていく愚僧。

 

来たるは、そこそこの冬であってほしいな。

 

 

サンライズ
 


親鸞聖人が教行信証において記された正信偈(正信念仏偈)は、全真宗教団がお称えする偈誦(ゲジュ:お歌でありお経ではない。)である。
 
宗派によってお称えする節は微妙に異なるが、教えそのものは共通して等しい。
 
ところで、真宗教団の所為の経典はすべて浄土三部経ある。
 
中でも、佛説無量寿経中の四十八願文には法蔵菩薩が阿弥陀如来に成るために誓われた願いが記されている。
 
すべて尊重すべき内容だが、特に第十八願文は『念仏往生の願い』が記されている。
 
つまり、『私(法蔵菩薩)が如来に成るとき、すべての人々が心から信じて、「私の国(極楽浄土)に生れたい!」と願い、わずか十遍でも念仏を称え、もしも、私の国に生れることができないのであれば、私は決して覚りを開きません(如来にならない)。ただし、五逆の罪を犯したり、佛の教えを謗しるものだけは除かれます。』という誓いが記されている。
 
このことが、そのまま正信偈に引用されていて、『至心信楽願以因』という箇所にあたる。
 
正信偈は7言60行120句の偈文で綴られており、2行~4行を一段落として解釈するのだが、『至信信楽願以因』という句は最初の1行目から数えて第18行目に出てくるのである。
 
偶然とは言え、とても不思議なことである。
 
勿論、意味の解釈からして偶然だとは思うのだが、第十八願が正信偈の18行目に記されているのが不思議でならない。
 
思慮深い親鸞聖人のことだから、『わざと18行目にもってこられたのかな?』と思ってしまう。

誰か、この18の数字トリックの真相を知る人が居られたらご教示願いたい。
 
 
サンライズ


子猫のムーが逞しく成長してきた。

 

とても、人なつっこく、物わかりがよい。

 

クレバーで行儀もいい。

 

大も小も必ず便器を使用する。

 

甘噛みすることもあるが、叱ればすぐに止める。

 

なかなかのお利口さんだ。

 

 

最近では、お座りもやってのける。

 

時々、檻から出して放置しておくと勝手に遊んでいる。

 

 

今日は、サプライズがあった。

 

ガラス越しにニャーニャー鳴くのでドアを開けてみると、二階から”猫ジャラシ”を咥えてきて、愚僧の前でポトリと落とすではないか。

 

『何と、これで遊ぼう!』ということだ。

 

暫く遊ばせていただいたが、途中から”人間ジャラシ”と化していた。

 

 

サンライズ