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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


先日、あるご院さんを見送った。

かつては、京都新聞社のニュースキャスターをしておられ、TVでもお馴染みの顔だった。

歳は四年先輩だが、地元仏教会の副会長を共に担った仲である。

人を人として尊重し、誰とでも等しくお付き合いくださった。

真面目で自分に厳しく、プレス魂を垣間見ることもあったが、ジョークの通じる方だった。

また、花柳界にも顔が効き、京都花見小路でのお遊び(?)によくお供したものだ。

坊守さんのお話では、最後は緩和ケア病棟に移られて『安らかな命終』を遂げられたそうだ。

肖りたい僧侶のお一人であった。

哀悼の誠を念じたい。


サンライズ


読者の方々、いつも『くだらないヒノキョウのブログ』を読んでくれてありがとう。

いつも、違った角度から物事を眺めていく。

これがすべてではないが、この時代、このくだらなさが必要なのではないかと思う。

皆が一生懸命の中、一人ぐらいはくだらない思考回路が存在しても良いのでは。

愚僧は、こういった思考がたまらなく好きである。


実はくだらないこととつまらないこととは少し違うように思う。

つまらないという表現は、はじめから結果が見えているようで視野が狭く夢がない。

時には、考え及ばないような思考から芽を吹くこともある。

つまり、くだらなさの中には夢がある。

これからも、益々、くだらないブログを続けてまいる所存である。


サンライズ

世の中には、いろいろな褒めの言葉がある。

『貴方に感動した。貴方は素晴らしい。貴方は賢い!!』など表現はさまざまだ。

しかし、言われる側からすれば一番嬉しい褒め言葉って何だろう。


佛説無量寿経中に法蔵菩薩が世自在王如来に出遇われた時のお心が讃佛章に記されている。


『願我作佛、斉聖法王』(ねがわくば、われさぶつして、しょうほうおうにひとしく)とある。

「願うことは、私が佛となって世自在王如来のように成りたい。」という一句だ。

言い換えれば、『私も貴方のようになりたい。貴方のような生き方をしたい。』ということである。

この褒め言葉は他に類を許さない。


ここから先は、手前味噌なお話だが、かつて、これに近いことを言われたことがある。

定年三年を残し35年間勤めた職場を去るとき、『辞めないでください。』と言うスタッフが多い中、『貴方の意志を継承します。』と言ってくれた人がいた。

現在の常務理事だ。

その時、正直、『ああ良かった。』と思った。

『辞めないで』と言われれば不安が募るのである。


結果、『貴方のように成りたい。』と仰った法蔵菩薩は、四十八願を成就され阿弥陀如来と成られたのである。

よって、佛説無量寿経には、それ以降に世自在王佛はお出ましにならない。


『貴方のように成りたい。』という表現には深い味わいがある。

では、最強の貶(けな)し言葉は、やはり、『貴方のようにだけは成りたくない。』かな。


サンライズ


先日ご紹介したご老婆の葬儀式を昨日終えた。

それは、朝方から騒がしかった。

中学生位のお孫さん方7名が本堂の拭き掃除に来てくれたのだ。

楽しそうに従姉妹同士が声を掛け合いながらお掃除している。

『よく、大勢で来てくれたねー。』と声をかけると、『母から婆ちゃんのために行ってこいと言われた。だから、少しでも綺麗にと思って・・・。』


ここの家族に法話はどうなんだろう。

いのちの連鎖が見えてくる。

子ならまだしも孫の顔が輝いて花が咲いているではないか。

孫達の心にお婆ちゃんはしかと存在していた。

いのちを粗末にしない生きざまを他愛もない孫達から教わった。


やはり、あの婆さんはただものではなかった。

でも、人間誰しも廻り巡るご縁に翻弄されて、大切なことを忘れることもある。

心に感動を得ても、山門を潜り抜けると忘れるものだ。


やはり、法話は必要なのであって、その都度、新鮮なお話が必要なのである。

いやー、葬儀式の朝に大輪の花を見せてもらった。


サンライズ


ある独居のお婆さんが亡くなられた。

本日、その夜伽(よとぎ)である。

その方は帰敬(おかみそりのこと。)を受けておられなかったので、愚僧が命名させていただいた。

法名:釋妙照(妙なる光という意味)と。

若くして主人にも最愛の長女にも先立たれ、最も頼りにされていた息子さんにも先立たれ、断腸の境遇であっただろう。

今日まで、想像を絶するほどの寂しさ、辛さ、悲しさを抱えながら逞しく生きてこられた。

与えられた”いのち”を逃げることなく精一杯生きてこられた。

廻り、巡ってくる不平等な境遇にもめげず、いつも、にこやかに接してくださった。

仲間との出遇いを楽しみにお寺参りしておられた姿が目に焼き付いている。


与えられた”いのち”を粗末にしない彼女の生き様は私達のお手本そのものである。

いつ同じ境遇に遇うかも知れない私達。

ちょっとしたことですぐにめげてしまうのが見えている。

そんな時、彼女の生き様に肖りたい。


人それぞれ、訪れるご縁は千差万別だが、阿弥陀さまは分け隔て無く等しくお浄土へ渡してくださる筈である。

 廣開浄土門 南無阿弥陀佛


 サンライズ


本日、地元のY病院の公設化が否決されたとのこと。

これも地域の話題の一つだ。

考えて見ればそれに拘わる借財は市民なのである。

今後、公設で創る創らないで行政職員も、議員さん方もどう応えるかでその生命が決まるだろう。


愚僧は初めから申しておる。

スタートが悪すぎる。

いや、そんな稚拙な理由しか思いつかなかったのである。

建物が消防法や建築基準法などで現行の法整備にそぐわない。

一民間病院が、『こんなに、危ない病院でもいいのか?』という個人レベルの泣きつきで市が揺れ動くのだからおかしな話だ。


じゃあ、なぜにこのことが問題なのかということである。

R市のS病院も、あの悪名高きK市のKS病院も己の力で克服してきて今がある。

つまり、あっさり愚僧流に申せば、医療という聖域をかさに減価償却等の資産を職員が費用(所得)として食いつぶしてきた結末を『市民に助けて欲しい。』という泣きすがり戦術というスリ替トリックで急場を凌ぎたいというだけの話にしか見えない。

そんなもん、数年後の結果は歴然とするだろう。

『市民病院が有った方がいいですか?、それとも、無くてもいいですか?』というバカげた御前会議を創設し、これ見よがしに方向付けしてきたY市執行部の怪しい政策を疑わざるを得ない。

そんなものに市が手を貸すぐらいなら、『そこらじゅうの八百屋のおっさんや自家営業の店舗のおばさんにも手を貸してやれよ。』と言いたい。

食料品も市民の生活を脅かすことには何ら変わりない。

みんなみんな個人店舗は爪に火を点して凌いできている。


他方、救急医療という視野で眺めてみてもわかるように、K市の端っこからY病院までの時間、Y市の端っこからK病院までの時間を救急車で辿ってみても30分あれば充分に搬送が可能である。

逆に30分経っても搬送できないようなケースがあるとするならば、申し訳ないがそんな患者さんは20分以内に救急病院に担ぎ込まれても救命が困難という事である。

つまり、救急医療面では、Y市は何も不足はない。

じゃあ、開業医と競合して外来患者さんでも獲得するかということだが、こんな開業医荒らしの病院なんて今の医療連携の時代にいただけない話である。

ここで、個人的に有無の見解を申すならば、愚僧は『公的なY病院があった方が良いと思う。』に傾く。

それは、無いよりも市民寄りの声の届く都合の良い病院があった方が良いからである。

つまり、一病院の建設や開設にターゲットを置けばそういうことになる。

しかし、数年後の行く末を考えてみよう。

今や自治体病院が悉く厳しい状況に追い込まれているお隣の実情をもっと目を見開いて考察するべきである。

公立病院は有っても良いが、市民にシュミレーションと未来の動向を説明する義務がある。

ここ数十年右肩下がりの診療報酬をなめたらあかん。

それでも市民が承知の上で納得して同意するならそれだけの話である。

少し言い方が過激だったかな?

でも、個人レベルのステータスで最後に泣くのは市民だからな.。

で、この記事は誰も『いいね!』はいらんよ!


サンライズ

今年は柑橘系が期待できそう。

温州ミカン、八朔、レモンなどの蕾が著しい。

一昨年は害虫を駆除しまくったが、昨年は放置しておいた。

これが効を奏したのだろう。


害虫をパーフェクトに駆除すると結実が悪くなる。

かといって駆除しないと果樹が蝕まれる。

この斟酌(しんしゃく)が難しい。


生態系は人間が関与しない方が望ましいようだ。

自然体が一番ではないだろうか。

たわわに実って「収穫をもう一日延ばそうか。」と思った次の日に全部盗まれていることもある。

カラスなら少しは残す筈だ。

最も恐ろしいのは害虫や害鳥ではなく心貧しい人間だ。

これを名付けて害人という。


サンライズ

ところで、境内の草むしりが悉く続いている。

本日も雑草の話になるが、ドクダミの繁茂は半端ではない。

毎年、きれいに刈りとるのだが、根っこは地中で息づいているのだ。

地下20センチ辺りで縦横無尽に根を張っていて、明春には新芽が吹いてくるから逞しい。

しかも、生草はとても臭く、えぐい匂いを伴う。

鼻を突くような、表現し難い青草独特の匂いを放つのだ。

これも身を護る一種のワザなのだろうか。


ところが、枯れて乾燥すると『十薬』という漢方薬に変わる。

不思議にもここが凄いところだ。

つまり、『俗名:ドクダミ』、『法名:漢方院釋十薬』という感じかな。


私達は命終した後どうなんだろう。

果たして、後世の方々の妙薬となれるかどうか疑問だ。

ドクダミは決して侮れないな。


サンライズ


先日、ゴルフコンペッションに穴が開いたとのことでお誘いがあった。

勿論、断る理由もなかった。

しかし、一年以上ラウンドしていない。

ボールは何処へ飛んでいくのやら。

いや、飛ぶかどうかも判らない。

心細い中、応召することとなった。


繁忙のため練習する時間も無く、ラウンド前に練習場に駆け寄った。

ロングは何とか誤魔化してもショートゲームはそうはいかない。

カップインするまでは己の責任だ。

かつてはゲームに勝つために練習したものだが今は違う。

迷惑を掛けないための練習だ。


で、申すまでもなく想定どおりだった。

迷惑かけずに生きられない愚僧が迷惑かけずにゴルフできるわけがない。

炎天下で白球という己の責任を追いかけていた。

帰宅するや成績を聞かれ、『今日は良い天気だったわー。』とひたすら逃げの一手だった。


サンライズ


先週土曜日、滋賀南教区の法話実演会が成功裏に終わった。

今年のテーマは『中陰法話』である。


真宗では、いかに声明を上手に称えようともそれだけでは僧侶の使命を果たしたとは言えない。

勤行と法話は表裏一体なのである。

経文を読誦するだけで教義が解る人は少ない。

同じ一句でも、その味わい方は広がる。

原色に変わりはなくても、快晴と雨では微妙に色合いが変化するのと同じだ。

その時、その方、その場所に応じた色が必要なのである。

それは、釈尊の対機説法の相(すがた)そのものと言えよう。

また、聴聞者の味わい方も各人各様である。

阿弥陀如来が今現在説法されているように、釈尊の教えが届けられてくる。

勇気を振り絞って実演してくださった四人の精鋭に感謝申しあげたい。


サンライズ