ひのきょうのブログ -34ページ目
先日、換気扇の下でタバコを吸っていたところ、電話が掛かってきた。
一旦、タバコの火を消してキッチンの縁に置いて電話に出た。
まだ、吸いかけだったので続きを吸おうと思っていた。
そして、電話が終わって戻るとそのタバコがないではないか。
『先ほど、ここに置いていたタバコ知らんか?』と坊守に訪ねたところ、『危ないので捨てました。』とポツリ。
よく見ると、大事に残しておいた吸いかけのタバコが無残にも水浸しだ。
以下、ご想像にお任せする。
愚僧には、『タバコの吸いかけをここに置いておくが後で吸うから捨てないでね!』という一言が、そして、坊守には、『この吸いかけのタバコ捨ててもいいの?』という一言がお互いに抜けていたのである。
まあ、冷静に考えればそんなところだ。
お互いに『良かれ』という思い込みに大事な一言が隠れてしまうのである。
煩悩具足の我が身を知らされた。
でも、『愚僧がタバコさえ吸わなければこの事件は無かった。』ということだけは確かなようだ。(猛省)
サンライズ
今なお、手紙詐欺と電話詐欺が後を絶たない。
しかし、電話による詐欺が圧倒的に多い。
足がつかず、電話一本で詐欺ができるからだろう。
しかも、システム理解に乏しいお年寄りに被害が集中している。
怪電話を受信する側への啓発が著しいが、一向に被害は減らない状況である。
その被害総額は、年間、数十億にも及ぶというが、国家はどこまで放置し続けるのだろう。
だから、『怪しい電話には注意しましょう』という啓発も怪しく思えて仕方がない。
電話には『非通知』というシステムがあるが、これって必要なのか?
通常、覆面して家宅訪問する奴はいないだろうに。
用件があって電話する以上は名を名乗るべきであり、そうでない電話は繋がらないシステムにすべきではないのか。
欲を言えば、どこの地域からの電話なのかを一発表示できる逆探知システム付き なら尚結構。
つまり『皆電話逆探知システム』の導入である。
目には目を、怪電話には皆電話だ。
今の日本の電気通信技術なら可能だと思うのだが・・・。
受動側ばかり責めるよりも能動側を攻めるべきではないのかな。
サンライズ
目下、元少年Aの手記『絶歌』の販売をめぐって論争が続いている。
『ここまでやるか?』と、当時は少年法の見直しまで取り沙汰されていた。
今、表現の自由を楯に、金になりゃ何でも良いのだろうか。
まあ、人間の感性も社会の流れにぶれてくるものだ。
こんな大人達が『心を育てよう』などと宣うのだからおかしな話しである。
何を柱として心を育て、また、心を育てるとはどういうことなのかである。
愚僧は、『いのちといのちの繋がりを感じられる人間に育てること』だと信じている。
しかし、コンビニやスーパーが主流の昨今、魚の絵をパック入りの切り身を描く小学生がいたり、食前のことばや食後のことばを笛で代用するバカげた学校があったりして、日常生活の中にいのちそのものや、いのちの繋がりを見いだすことは至難の業である。
古来より、心の教育は家庭が主流だったが、今やその家庭も崩壊の状況に瀕している。
こういう時代であるからこそ、今一度、宗教を見直す必要がある。
せめて一日一回、みんなでお仏壇に手を合わせてみようではないか。
以前は当たり前であったこの光景も珍しくなりつつあるが、人生の拠り処となるのはお内仏だといただいている。
一昨日、ご門徒さんの二七日に参らせてもらった。
小学2年生の子がお婆さんを偲び、大人と一緒に手を合わせていた。
ご法事以上のいのちの勉強は他にはない。
まずは、本当の心の教育を、家庭からはじめてみようではないか。
サンライズ
人間が「獣道」に迷い込むとなかなか出られないとのこと。
文字通り人が通る道ではない。
しかし、「獣道」は私達の人生の中にもあるような気がする。
一旦、獣道に陥るとそれに気付かず、より深みに迷い込んでいく。
つまり、迷いが見えず、迷っていないと思い込んでしまう浅はかさである。
言い換えれば、人間は愚かなくせして愚かさを知らないばかりか、逆に賢い、偉いとさえ思い上がってしまう。
そして、行き着くところ、「こんな筈ではかった。」と腹を立て愚痴ったりしている。
ご和讃に、
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情を捨てずして
回向を首としたまひて大悲心をば成就せり
とある。
阿弥陀さまの願いは、浅ましい己中心の煩悩を抱えながら獣道に迷い苦しむ私達を、「見捨てられない、放っておけない、救わずにはおれない。」と如来の方から立ち上がってくださる。
そして、慈悲の心で呼び覚ましてくださるのである。
やはり、気付かせてくれるのは身近な家族だろう。
私一人のいのちではない連鎖の中に、限りない仏のはたらきが息づいている。
サンライズ
昨日は、真宗教団連合(真宗10派)の総会に出席させていただいた。
今年から二年間、我が佛光寺教団が支部長を担うこととなっている。
宗派は違ってもメンバーの半数は顔馴染みである。
会議も無事終わり、続いての研修会では安斎育郎先生をお招きし、『原発と環境』というテーマでご講演いただいた。
師は、東大工学部原子力工学科の第一期生のご卒業で、日本の原子力工学のパイオニア的存在である。
パイオニアと言っても開発推進派ではなく、放射能による影響力、環境問題についての第一人者である。
広島・長崎の原爆投下、ビキニ沖環礁での水爆実験の真相を切り口に、福島原発事故がかかえる諸問題、諸課題についてお話しいただいた。
私達が マスコミでしか知り得ない情報に鋭く科学者としてメスをいれるお話しであった。
はっきり言って、既にどうしようもない状況に至っているとのことである。
たった、一件の原発事故で・・・。
最後に『虫の目、鳥の目』のお話しで括られた。
『所詮、科学は虫の目、鳥の目でもって全体を鳥瞰いただきたい。』とのことであった。
サンライズ
先日、コンビニに買い物に行ってレジで並んでいた時だった。
何気なく、愚僧の前の客の買い物カゴを覗いた。
何と、ウイスキー数本の他に二日酔いの薬と肝臓の薬が入っているではないか。
余計なお世話だが笑いが止まらなかった。
愚僧も犯してしまいそうな光景だったからである。
『備えあれば憂いなし』というのもあるが、飲み過ぎた時の備え薬というのはとても滑稽である。
親鸞聖人は、『薬あればとて、毒を好むべからず(歎異抄第13章)』と、「いくら薬 があるからといって好き放題に毒を飲むべきではない。」と仰っている。
つまり、この私を救わずにおれない阿弥陀さまのご本願があるからといって、悪いことを平気でやって良い筈がないのである。
人の振り見て我が振り直せだ。
愚僧も少し買い方には気を付けねばな。
サンライズ
『俵はごろごろ』というのは童謡唱歌のタイトルである。
じっくり考えれば殆どの人が解る曲名だ。
先日、クイズ番組を見ていて久々に笑われてしまった。
皆さん方も同じだろうが、我が家でも家族同志で一緒に応えている。
つまり、誰が物知りかの競い合いである。
それは、曲名を答えるクイズだった。
静かにイントロが流れたところで、『あーんと、何だっけ?』と坊守が呟いた。
愚僧が、思わず口にしたのが、『ひょうたんポックリコ!』だった。
すると坊守が笑いこけて、『ひょうたんって何ー(?)』ときた。
俵はゴロゴロの次の歌詞を曲名と間違って応えたつもりだったが、『ひょうたんポックリコ』なんて、歌詞のどこにも出てこない。
二番の歌詞に『ちょうちん』というのはあるが、『ひょうたん』はなく、況してや『ポッカリコ』はあっても『ポックリコ』はないのだ。
幼少の頃、歌詞を実にいい加減に聞いていたのだろうが、表現が複雑なのである。
例えば、どっさりこ、ざっくりこ、にっこりこ、ぴっかりこ、ぎっちんこ、こっくりこ、ぱっちりこ、ぽっかりこ、ざんぶりこ、びっしょりこ、と盛り沢山だ。
何と、昭和元年(1925)の歌で、作詞者は童謡界三大詩人の『野口雨情』だった。
情けなく雨が降る中、つい、応えた愚僧も腹を抱えて笑っていた。
サンライズ
昨日はブログを休んでしまった。
実に申し訳ない。
今日はよくある人の話だ。
一度、終わった話を何度も引きずり出してくる人がいる。
視野が狭くて現況が見渡せていないのである。
申し訳ないが、経験から申すと女性に多い。
例えば、話し合いで決った事に対して、後で『私は賛成ではなかった。』というパターンだ。
賛成多数で決まった後につべこべ言うのは今を生きる人間としてとても恥ずべきことである。
恐らく、その人の中では終わってはいなく、結論が飲み込めないままの己を引きずっているのだ。
こういった仕草に『しつこい。済んだ筈!』と諌めても、議論は堂々回りになるだけなので、知らん振りして拘わらない方が得策。
根が腐った樹木に、水を差してもどうかな。
接ぎ木するか、挿し木するしか無いのかな。
サンライズ
あるご門徒さんの満中陰を迎えた。
参詣者の殆どは故人の追善供養のために念仏申しておられた。
『どうぞ、成仏しておくれ』と。
どうも勘違いが甚だしい。
人間が善と考えているのは己の都合であって、如来のそれではない。
それを故人に差し向けたところで、単なる自己満足以外の何ものでもない。
親鸞聖人は、『父母孝養のためとて一返にても念仏申したることいまだそうらわず。』と仰っている。
花びらが散るように人の生命も等しく滅びゆく。
つまり、故人はご先祖には違いないが、一人のいのちではなく繋がりを示してくださるご縁なのである。
親兄弟は当然のこと、祖父母やご親戚及び地域の方々のご縁がお念仏として今の私に振り注がれている。
いのちを粗末にできない所以は、ここに存在する。
だから、追善なんておこがましい。
追慕しかないのである。
サンライズ
最近、「どうしましょう?」という質問が多すぎる。
しかも、社会経験を積んだベテランの口から出てくる。
『どうしましょう?』と言われても、愚僧はその次元にはいない。
「では、どうしたいの?」と逆に聞いてみる。
「実は、こう思うのですが・・・。」
だったら初めから、『それを言えよ!』ということになる。
つまり、遠慮しているのではなく、ジャンケンで言う『後出し』の構えだ。
言うべきことを言わないのはどうかと思う。
対案をもって臨んでいただきたいものである。
サンライズ