ひのきょうのブログ -33ページ目
この時期、何が怖いかと云えば食中毒である。
その姿は、細菌性、ヴィルス性、毒性など様々だ。
夏場に最も多いのが細菌性ということだが、その殆どは熱にとても弱い。
だから、しっかりと食品を加熱処理すれば、比較的安全と言えよう。
しかし、煮ても焼いてもどうにもならないのが煩悩という中毒である。
この中毒は、身に溢れんばかりの煩悩の毒を増殖させ、過ちに過ちを繰り返えす苦悩の毒である。
それは、『アレが欲しい。こんなのイヤだ。私は正しい。』などと止めどなく湧き出でてくる。
この中毒症状は、人の手による予防や治療効果は皆無である。
親鸞聖人は、
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情を捨てずして
回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり
というご和讃を残しておってくださる。
凄いところは、『苦悩の有情を捨てずして』というところだ。
誰でもこんな風には云わないし、言えない。
あれやこれや、私達のことをすべてお見通しなのである。
個々が抱える煩悩を『気の毒に!可哀想に!』と憐れんでくださる。
俗世間を生きる私達が煩悩中毒を煩っていても、阿弥陀さまは『放ってはおけない』とお名号を首として苦悩を解き放ってくださる。
つまり、煩悩を消すのではなく、煩悩が煩悩でなくなるという表現の方が正しいのだろう。
この広大な慈悲を処方できるのは、唯一、阿弥陀さま以外には見当たらない。
さて、今年の地蔵盆の流し素麺では、新鮮な青竹としっかり煮込んだ麺を用意せねば。
サンライズ
先日、ご門徒さんの年忌法要でお参りさせてもらったが、用を控えていたので料理屋さんまではマイカーでで行くことにした。
宴席が始まり、「何や、ご院さん水くさいやないか、1杯ぐらいだったら!」とビールを勧められたが、「酒好きの私が敢えて申しておりますので・・・」と丁重にお断りした。
というわけで、その日はお酒を飲まれている方々を観察することに決めた。
アルコールに強い人、普通の人、弱い人さまざまで、次第に表情が変化していくのがとても面白い。
弱い人は、ビール2~3杯で「もう限界です」と言われ、酔っている己を知っている。
しかし、飲める人は「全然、大丈夫」を連呼し、泥酔している己に気付かない。
平素は、愚僧も『こんなんやねんなー』というのが見えてきた。
すでに女性方の箸が止まっていることにも気付かず、酔いしれている姿を想像するととても恥ずかしかった。
そう考えると飲酒も煩悩と同じだ。
親鸞聖人は、歎異抄において、
”さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし”
と、申されているように、己自身が煩悩まみれに酔っていながら、『酔っていない!』と言い張って、業縁によってはどのような振る舞いになるかも判らない恐ろしい存在なのである。
時には素面で観察するのも良いものだ。
嗚呼、穴があったら入りたい。
穴かしこ~、穴かしこー。
サンライズ
先週の土曜日、久々に娘のお家にお邪魔した。
ご馳走ネタは手巻き寿司パーティだ。
先方のお父さんと腰を据えながら焼酎を呷っていた時、外の狸の置物の背中で小鳥が消えた。
『アリャリャー?』近くに寄ると、狸の傘が外れて背中辺りに直系5Cm程の穴が空いている。
何と、ツバメの館になっっているではないか。
しかも、中には5匹の雛が孵っていて、黄色いくちばしが見える。
ツバメが地上に近い所で巣を宿すのはとても珍しい。
昔はどこのお家でも軒先にツバメの進入穴が開けてあったものだ。
今は、どこもかしこも洋風建築なので巣を作ろうにも作れないのである。
動物の知恵は時代に置いてきぼりなく確実に進化している。
『アレがない、コレが無い』と文句ばかりで、何も始まらない頭でっかちの人間とは随分違う。
久々に、動物の知能の深さを見せてもらった。
サンライズ
聞き及びでは気の毒な感も否めないがれっきとした犯罪である。
何の所縁もない他人さまを巻き添えにして、己の命と引き替えに意思表示しようとするのだからテロとも言える。
亡くなられた方には、謹んで哀悼の誠を捧げたい。
連日のTVでは防止策が議論されているようだが、そんな問題ではあるまいに。
日本国中どこであれ、ガソリン被って火をつけたら止めようがないのである。
しかし、まあ自死が後を絶たない。
昭和中期では交通事故による死者数が万単位に及び『交通戦争』と呼ばれていたが、昨年では約5千人余りに激減している。
ところが、自死数ときたら3万人を越えているのだから、今や、日本は『自死戦争』の真っ直中と言えよう。
自殺企図者を含むと10万人はくだらない。
教育というよりも人の根幹において、一体何が不足しているのだろう。
命の尊厳は他人行儀ではなく、己の命も含まれる。
では、『何故に命を粗末にできるのか?』である。
その一つに、昔は、『貴方が必要』という意識の中で家族もご近所も”おかげさま”の太い絆で結ばれていた。
例えば、隣の叔父さんでも危ない遊びに対しては、我が子のように厳しく怒られたものだ。
また、辛く悲しいときは共に共有してくださり、決して一人にはしておかなかった。
『だから』とは云わないまでも、味気ない社会になってしまったような気がしてならない。
そう考えると、彼も犠牲者だったのかも知れない。
『ウッカリと口を挟むと後が厄介』とか、『個人情報保護の観点』など、我関せず『自分さえ良ければ他はどうでも良い』という世の中になりかけている。
このままでは日本も自殺大国になる。
今こそ、”自分ひとりのいのちではない”ことをしっかりと噛みしめて欲しい。
もう一度、”いのちの原点”を訪ねてみようではないか。
サンライズ
二番目の孫が自転車にやっと一人で乗れるようになった。
昨年まで、ヘルメット姿で何度も転びながら歯を食いしばって練習していた。
やっと結果が出たのだ。
その嬉しそうで得意げな顔が何とも言えない。
向かいの叔父さんも「凄いねー」と褒めると、「僕ひとりで乗れた、一人で!」と何度も何度も自慢げに話している。
しかし、よく見ると転けないよう母親がしっかり手をさしのべながら追いかけているではないか。
それも知らずに自慢げに喜んでいる光景がチョーあどけない。
私達大人も難しいことを克服すると嬉しいものだ。
大人になるに連れ、いつしか自分一人で生きてきたかのようにうぬぼれ、上手くいかなかったら回りに当たり散らす自己中心的な浅ましい大人に生まれ変わることもあり得る。
しかし、親が亡くなっても、この私を見捨てずに救わずにはおれない永遠の親さまがいてくださるのである。
親鸞聖人の高僧和讃には、
煩悩にまなこさへられて、摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて、つねにわが身をてらすなり
と、煩悩に遮られて私の眼には光明なお姿は見えないけれど、煩悩具足の身勝手な私だからこそ、阿弥陀さまは『救わずにおれない』と常に大悲心で私を照護してくださっているのである。
これは、正信偈の『煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我』の二句に相当する。
日々、報恩感謝のお念仏を称えようではないか。
サンライズ
今年度の寺院予算に地蔵堂の修復を計上いただいた。
少しでも経費を節約するため屋根瓦は自前で処分した。
現在、雨ざらしの中でお地蔵さんが突っ立ていらしゃる。
真宗寺院では六道輪廻は説かないので地蔵菩薩への信仰はないが、未来仏弥勒菩薩が如来になられるまでの間、『私は如来にならない』と誓われた地蔵菩薩が世直しをしてくださると云う。
古来より境内の一角に地蔵堂が建立され、ご門徒の中には孫が生まれると喜んで延命提灯や赤い前掛けを奉納してくださる方がいる。
今を生きる方々のお心に応えるべく、今年も8月23日には『地蔵盆こどものつどい』を開催する予定である。
今年は、新築された地蔵堂で催すことができそうだ。
今は、梅雨の真っ直中、明日は麦わら帽子でも被せてあげようかな。
サンライズ
いきなり憤慨である。
何処とは言わんが、ある地元の農業関係の会社だ。
あっ、暴露してしまったけれど地元は四市あるから、まあいいか。
特にひどいのは女性社員だ。
順番待ちチケットを引いて待っているとき社内に電話がかかってきた。
たぶん顧客からだろう。
女性社員が『あんた出なさいよ!』と言わんばかりの目つきで互いの様子を探っていたが、やはり、一番、新米と思われる女性が受話器を取った。
ここまでは、順当なところだ。
第一声は、『はい、何でしょうか?』だった。
思わず、『お前さんはアホか?』と言いたくなってしまった。
先ずは社名を、そして担当者名を名乗れっ!
かかってきた電話は、アネゴ風社員への名指し電話だった。
そして、『誰々さーん、電話ですぅ。』と回された。
以下、耳を立てて観察させてもらった。
多分、先方が誰か判っていたのだろう、名指しの彼女は、『ちっ』と舌なめずりをして電話に出た。
『はぁーい!、いつもお世話になりましてー、ありがとうございますぅー、お待ち申しておりましたー、ハーイ』だった。
『なんやねん!わざとらしく”はい”を二回も言うな!』
北新地のアルサロでもこんなレベルは珍しい。
こんな態度が客に見えたらあかんのである。
愚僧もしばしば電話するが、多分、この体であしらわれているのだろう。
『信頼』というのは、己の能動的なはたらきによるものだが、その根源を突き止めれば、やはり相手より蒙る所作のすべてで決まってくる。
『信心』も同じかも知れない。
教学において、『信心は如来より賜るもの』と教わってきたがそのとおりである。
今回の事例を喩えるのも恐れ多いが、対象に疑心が生じれば、そこには『信頼』も『信心』もないということになる。
ありがたいことに、最悪の女子社員がヒントを与えてくれたのである。
サンライズ
2009年の8月からくだらないブログをスタートして、早や6年を迎えようとしている。
月日の経つのは早いものだ。
これだけは言っておきたいこと、感動したこと、怒っていること、お叱りを受けるようなことなど、思うが儘に表現してきた。
そんなわけで、重複するようなことも多々あっただろうが、纏めてみると一冊の本になる。
愚僧は資金も文才もないので本は出版できないが、心の奥底では一冊の本を出したような気分である。
でも、この本は書きかけで、未だ終わってはいない。
これからも書き続けようと思う。
どうぞ、このくだらなさを共有していただければ幸いである。
サンライズ
誰の人生にもいろいろな道がある。
現在では道が多すぎて選択に迷ってしまうほどである。
親鸞聖人は、9才から20年間、比叡山で「生死(ショウジ:迷いの世界のこと)出づべき道」を求め、血の滲むような苦行を体験された。
しかし、 いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし(歎異抄:ドンナ行モ満足ニ修メラレナイ私ニハ、地獄以外ニ住ミ家ハナイ。)と仰っている。
地獄という表現までも用いられているこのすごい覚悟は一体何だろう。
況んや、「お念仏以外に救いの道はない」とする確信である。
現在、選択肢があり過ぎてどの道にも踏み出せないのが私達凡夫ではないだろうか。
そのことを阿弥陀さまは見抜かれて、「本当に人間らしく生きるには我が名を称えよ」と仰ってくださっている。
親鸞聖人は、ただ、お念仏一途の生涯を貫かれた。
その心をお慕いしながら念仏申す身となりたいものである。
道があり過ぎるようだが、本当のところ、ひとつしか無いのかも知れないな。
サンライズ
いつもお利口に母の手伝いをする小学生がいた。
ある時、どうしても購入したい物があったようで、今までのお手伝いに値段を付けた。
「留守番代100円、買い物代100円、掃除代100円・・・、全部で500円欲しい。」という手紙を母の机に置いて寝た。
次の朝、自分の机の上に500円硬貨が輝いていた。
「やったー!」と貯金箱に入れて学校に出かけた。
午後、家に帰ると『母のただのお願い』という手紙が置いてあった。
「看病代もただ、食事の支度代もただ、服の洗濯代もただ、子育て代もただ、全部ただ、でも、母さんからのただのお願いは、これからも、ただ、お母さんの言うことをよく聞いてね!」と書かれていた。
最初のただは、無料のただ(只)、母のただ(唯)は、たった一つのお願いなのである。
正信偈の中に「唯」という文字が六回も出てくる。
親鸞聖人は”唯信抄文意”に、「唯というは、ただこのこと一つをいう。二つ並ぶを嫌う言葉なり。」と記されておられる。
そして、正信偈の括りには、『唯可信斯高僧説(ただ、七高僧の 教えを信じなさい)』と記されている。
サンライズ

