ひのきょうのブログ -32ページ目

ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


この時期、夏の風物詩と云えばやはり怪談である。

昔、あるイベントでの反省会で『雨が降った後の階段は怖い!』と云われ、笑ってしまったが、確かにこれも滑って怖い。

最近のオバケ番組では、心霊写真や超常現象といった殆どがCG映像によるオバケが多い。

古来より、『足がない』、『髪が長くて恨めしやと言う』、『両手の甲を前に垂らしている』というのがオバケの特徴である。

つまり、足がないからフラフラと彷徨い、後ろ髪を引かれるように過去に囚われ、両手を前に出してアレが欲しい、コレも欲しいと愚痴る。

本当にオバケなるものが実在するかどうか判らんが、これはオバケだけに限ったことではない。

親鸞聖人は、
『 凡夫というは、無明煩悩欲も多く、怒り腹立ちそねみねたむ心多く ひまなくして臨終の一念に至るまでとどまらず、きえず、たえず 』
と、一念他念文意でご指摘くださっている。

気がつけば、地に足がつかないでフラフラと人生を彷徨い歩きながら、臨終の一念まで留まることなく、消えることなく、煩悩まみれのオバケは「私達」なのかも知れない。

こんなオバケでも、常に阿弥陀さまは大悲のお心で『救わずにはおれない』とはたらきかけてくださっているのである。


サンライズ


先週末の三日間は研修だった。

そんな訳でブログは休ませていただいた。


中味は親鸞聖人の越後流罪の後、関東での伝道活動を訪ね歩いた。

とは云うものの愚僧達の便はすべてバスだ。

聖人が数十年を費やして歩まれた足跡を、愚僧は三日で訪ねるというのだから想像力が求められる。

勿論、聖人は自らの目的意識で旅をされたのであるが、すべて、如来の計らいに思えてきた。


そして、学びの中で史実と伝承は異なるということを感じ得た。

今さら、ご門徒さんにアレやコレやの史実を説明したところでどうしようもないが、伝承には念仏相続の心が伴っている。

どちらが大切かと云えば、伝承も史実も大切なのである。

正直なところ僅か三日でそれ相応に疲れたのであるが、聖人には申し訳ない思いでいっぱいである。


サンライズ


人生以外にも『迷い道』というのがある。

通常の意味は、目的地に辿り着けない道のことだ。

つまり道があるけれど、それを誤ってしまうことである。


そもそも、道の定義というのは道があるかどうかである。

誤った道を歩む者は、いつかはその過ちにに気付くだろう。

が、正しいと思い込んでいる人は間違いさえも判らない。

だから迷い道と云うのである。

昨今、迷い子ならず迷い大人が多い。


最早、これは道とは云わず、彷徨いである。

問題はこの彷徨いなのである。

一生懸命、くそ真面目に仕事していても彷徨っている人は少なくない。

確固たるものが無いままの歩みは、どの道を歩もうとも彷徨いになってしまう。

『仕事、家庭、財産、愛情、健康(命)、趣味?』

少し角度を変えて、『根性か、忍耐か?』

みんな大切なものばかりだけど、確固たるものと言えるのかなー。

『大切』という表現は、この私からいずれ離れていくからこそ『大切』と呼称するのである。

しかし、確固たるものは『大切』という次元を超越する。

だって、この私から離れないのだから。

歳を重ねることによって少し見えそうな所まできているが、未だ見えない。

確固たるものとは何だろうな・・・。


サンライズ


♪ 和歌の浦曲(うらわ)の 片男波(かたおなみ)の
  よせかけよせかけ 帰るごとく
  われ世に繁く 通いきたり みほとけの慈悲
  つたえなまし ♪

この歌は、”御臨末の御書”として親鸞聖人が詠まれたと伝えられている。

まさに還相回向の最たるものである。

”御臨末の御書”の原歌は、

『 我が歳きはまりて 安養浄土に還帰(げんき)すといふとも 和歌の浦曲(うらわ)の片男浪(かたおなみ)の 寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ 一人居て喜ばは二人と思ふべし 二人居て喜ばは三人と思うべし その一人は親鸞なり 我なくも法(のり)は尽きまじ和歌の浦あをくさ人のあらんかぎりは  
弘長二歳(1263年)十一月 愚禿親鸞 満九十歳 』

と記されている。

『私、親鸞も年を経て九十歳となりました。お浄土に往生しましても、和歌山の片男波海岸に打ち寄せる波のように またこの娑婆世界に帰ってきます。

一人で阿弥陀さまのお慈悲を喜んでおられる方は二人と思ってください。

二人で喜んでおられる方は三人と思ってください。その一人とは私親鸞であると思ってください。』

つまり、聖人のみならず、死んだら何もかもがおしまいではなく、亡くなられた方は常に私達の傍にいてくださる。

お念仏を喜ぶ者は、一人ぼっちではないということだろうな。


サンライズ


あまり政治には関与したくないが、少し触れておきたい。

昨日、安部さんは「国民の理解が充分ではない」と云いつつも安全保障関連法案を強行採決に及んだ。

集団的自衛権の行使を限定容認しているようだが密接な関係にある国が攻撃されれば、政府は「存立危機事態に当たるかどうかを判断して自衛権力を行使する」という。

訳も判らず怪しい奴が我が家に土足で侵入してきたら戦わねばならないのは当たり前の事だが、怪しい奴が土足で家宅侵入してきたという友達が助けを求めて来たら、否応なしに戦うかということである。

大切なことは家族のためになるかどうかであって、国益になるかどうかである。

『じゃー、誰が判断するの?』ということになる。

官僚一夜漬けの内閣ですか、国民ですか?

一歩誤れば日本の国益に関係なく自衛隊は他国軍と一緒に戦うことを余儀なくされる恐れがある。


戦後、日本はGHQの占領下において、世界に向けてイエスもノーも言えない国に調教されてきた。

やけに急いで採決するのもこの影響だろう。

安部さんにも国際ユ○ヤの思想が相当蔓延っているような気がする。

今や世界はイエスかノーかの時代である。

いい加減な日本国の対応振りは、益々、世界に置いてきぼりになるだろう。

いざという時、アメリカは日本を護ってくれるかどうかも判らない。

何故なら、日本国益のためではなくUSAの国益になるかどうかの判断なのである。

院長が病院を見ずに患者さんや家族ばかり診ていたら、その病院は必ず潰れるというのを愚僧は実感した。

ちゃんと、今の日本を見て仕事してくれよ。


サンライズ


先日もあることで市役所に相談に行った。

結果、かなりの減免措置を受けることができた。

これも問い合わせたから判ったのだ。

勿論、条例化された時点では広く市民に周知されたものと思うが、一旦、その機会を見逃せばそれで終結されてしまうのである。

その多くは『本人申請』というスタイルだ。

この『本人申請』は、まあ、良しとしよう。

しかし、『制度を知らなかった』というのと、『敢えて申請しない』とでは天と地の差がある。

最後は、『伝えた!聞いてない!』の議論になるが、市は後者の『敢えて申請しない』という解釈に納っている。


知っている市民がいて、そのお隣には知らない市民がいるというのは”普く平等を宣言し、市民に寄り添う”という使命とは噛み合わない。

『これっておかしいのでは?』と思う。

税金を徴収している限りは、市の全部課にまつわるさまざまな制度や解説を三年毎に冊子にして、全戸に配布すべきと考える。

阿弥陀さまのように『放ってはおけない!』というのが『本当の市民サービス』だと思うのだが如何なものかな。


サンライズ

聞法会(もんぽうえ)に出席されない方が「未だ早い!」と云われているのを溢れ聞いた。

何がどう早いのかよく解らんが、”法を聞く”という姿は、明日でも未来でもなく、まさに今しかないと思うのだが・・・。


これは、聞法会だけに限ったことではない。

誰しも、『いつかやればよい』と思いながらも、永遠にその機会を逃してしまうことがよくあるものだ。

そういう意味では、この時代、林修氏の『今でしょ』が流行するのもよく解る。


親鸞聖人は九歳の時、得度を受けるために天台座主慈円大僧正を訪ねたが、すでに夜だったことから、「明日の朝に得度式をやりましょう」と言われた。

しかし、聖人は、「明日まで待てません。」と云い、その時に詠まれた歌が、

   ”明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは”

である。

”今咲いている桜を明日も見られるだろうと安心していると、夜中に強風が吹いて散るかも知れない”という意味である。

聖人は、自分の命を桜の花に喩え、『明日も命があるかどうか判らない、だから今を大切に生きたい。』というお心をお諭しくださっている。


この歌は、子どものくせして可愛げがないようにも聞こえるが、さらに深く味わってみると、『明日も命があるかどうか分からない。』というのは、聖人ご自身のことだけではなく慈円大僧正を心使った歌だったのかも知れない。

自分のことしか考えず、「未だ早い!」というのは如何なものかな。


サンライズ


ただ今、8月23日の『地蔵盆子供のつどい』に間に合わせるべく地蔵堂の改修工事をおこなっている。

明治の初期に創建されたが、生垣の隣接で湿気が著しく、すべての柱をシロアリに喰われてしまった。

お堂は大工さんにお願いすることにしたが瓦の処分と基礎の移設は自分達の手でやることにした。


そんな訳で、先週の土日、世話方さん方と一緒に地蔵堂周辺の素人工事をおこなった。

しかし、台風の影響で暑さは半端じゃなかった。

少し動いただけで汗がしたたり落ち、どうしても作業時間より休憩時間の方が長くなる。

お昼弁当も調達し、丸二日間、現地貼り付けで作業をおこなった。

何の報酬が出るわけでもなく、灼熱炎天下で、ひたすら子供達の笑顔を思い浮かべながら作業してくださった。

素人作業につき、14体のお地蔵さんが右向いたり、左向いたり、微妙に前後に傾いたりしているが、互いに和やかに語りかけているようで何とも表現しがたい趣がある。

功徳というものは、非常な辛さと苦しさに引き替えて徳が大きいものである。


ご和讃に、『 罪障功徳の体となる 氷と水の如くにて 氷多きに水多し 障り多きに徳多し 』という一句がある。

阿弥陀さまの無碍光というお日さまの光で氷が溶けるように、自己中心という煩悩の氷がそのまま溶けて穏やかな心になるということである。

ただ、暑い、苦しいだけでは何の徳も生まれて来ない。

このありがたさに、唯々、頭が下がるのみである。


サンライズ



昨日は教区内の組長(そちょう)会だった。

無事、成27年度の基本事項を決めていただいた。

ところで、仏教界では組長のことを”くみちょう”とは呼ばない。

あくまで音読みで”そちょう”と呼ぶ。

時折、場所によっては勘違いされることがある。

白鼻緒の雪駄を履いた丸坊主の怪しい男数名が組長会を開催するのだから、真相を知らない店から断られる場合もある。


この他にも専門用語が多いけれど、その殆どは音読みで片付けられる。降誕会(ごうたんえ)、涅槃会(ねはんえ)、成道会(じょうどうえ)、修正会(しゅしょうえ)など、会所も一般的には”かいしょ”と読むが、我々の世界では”えしょ”と読む。

さらには『会処』と表現する場合もある。

また、僧侶の名前も変わった読み方が多い。

例えば、雅彦(まさひこ)は”がげん”、真澄(ますみ)は”しんちょう”孝雄(たかお)は”こうゆう”などと音読みが大半なのである。

この理由の一つには、俗名と法名が関与しているものと思われる。

一般的に僧侶の法名は俗名と変わらないのが殆どなので読み方で区別しているようである。

生前では憲雄(のりお)と称していても、法名に変わると釋憲雄(しゃく けんゆう)という読み方に変えるのである。

得度を受けた段階で読み方を変える僧侶もおられる。

しかし、愚僧の法名は書き方も読み方も俗名に同じである。

まあ、読み方を変えたところでそう易々と中味が変わるものではない。


サンライズ



いよいよ、半年間の所得申告と源泉税の納付時期が到来してきた。

拙寺は弱小寺院なので半年毎に纏めて納税する。

俗世間の職場を退職した現在、愚僧は文字通りお寺に住むことが職となっている・

経費の100%を必要経費にしたいところだが、すべてという訳にはいかない。

法衣や袈裟は100%計上だが、生活費や車検や庫裏の修繕などはそうはいかないのである。


世間では、すぐさま『坊主丸儲け』などと誤解されているようだが実際はそうではない。

年忌や布教などの御法礼そのものは非課税なのだが、住職個人の懐に入ったその時点で所得となるというのが国税局の解釈だ。

つまり、所得である以上は源泉が発生するということになる。

葬儀や年忌が重なったりする月は高額となり、何もない月は皆無であったりと月毎に異なってくる。


そこで、昨年から非課税通帳を作成することにした。

ここに預けている限りは所得に非ず、引き出した時点で所得となるのである。

脱税は犯罪だが節税は犯罪に非ずだ。

まだまだ、研鑽の余地はありそうだな。


サンライズ