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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌

地蔵堂が完成したのだが全体に貧祖な感じに見える。

元の写真と見比べると鬼瓦が小さく、屋根の峯も低い。

瓦は釘止めだが部分的にぐらつきがあり所々欠けている。

本日、施行業者が目の色を変えて訪れた。

どうやら、総代が苦情を入れたようだ。

事前に社長が現地確認していたようだが、仕様が職人達に正確に伝わっていなかったのもひどい話しである。

あまりゴチャゴチャ言いたくもないが、仮に愚僧がプロの瓦職人だったら『どうかな?』という施行が施されている。

結局、点検に来た専務は、『あれだけ職人に言った筈なのに・・・』と大謝りだった。

人間の耳と口を介していくうちに都合良く言葉が変化していくのだ。

しかし、2500年余前に釈尊が説かれた説法が寸分の狂いもなく日本に伝わってきているのはどういうことか。

その違いは何処にあるのか。

浄土三部強の最初の句読は、『如是我聞』若しくは『我聞如是』である。

『我、斯くの如く聞けり。(⇒私はこのように教わりました。)』から始まっている。

『お前ら良く聞け!』ではない。

つまり、言葉が生き物として次から次へと届けられたのである。

言葉が届くとは、心を込めてお届けすることにある。

結局、結末としては、『言ったから、伝えたから』という言い訳しかできないのである。

常に、二度手間を踏まないようしっかりと言葉を届けたいものである。


サンライズ

ただ今、自宅納戸を改装中。

食後、母が気楽に横になれる場所が欲しかった。

そんなわけで、目下、納戸を改修するとともにダイニングを拡張している。

二度とない人生、誰でも最後は心置きなくゆっくりとしたいものである。

外出も気分転換にはなるが、自宅の良さはまた一入(ひとしお)。

誰に気遣うこともなく、住み慣れた街、遠慮のいらない家族に囲まれて気ままに過ごしたい。

愚僧もいずれそうなる身、これに勝るものはない。

ほんの少しの善を施したような気がするが、これも己の都合でしかない。

我々の善なんてものは自己満足に過ぎない。

阿弥陀さまから見れば危なかしくてしょうがないのである。

そう考えると、『善人なおもて』という言葉は、善人も悪人も同次元のところから始まる。

愚僧も紛れもなく悪人に違いないな。


サンライズ


先日、ある若手医師からご相談をいただいた。


平素から彼はとても面倒見の良い医師である。

そもそも、疾患というのは精神とは別個に発症するものではないと云われている。

そこには患者さんを取り巻く環境や心境も大いに災いするのである。

つい、疾患ヒストリーを聞くうちに、不可侵エリアに足を踏み入れてしまったのだろう。

そこはMSW(メディカルソーシャルワーカー)などの専門家にお任せすべきである。

一言、コメントさせていただいた。
『先生、お話しを聞くのは宜しいが、貴方の職業は医師です。民事不介入でいきましょう。』と。

数日後、彼は気が吹っ切れたのか、長野の手土産を持参して参詣にこられた。

気持は解らんではないが、人間誰しも心の結界が必要なのである。


先日、完成した地蔵堂も正面に入りすぎると、立ったとき屋根で頭を打ってしまう。

したがって結界を置いた次第である。

よくあることだが、知らず知らずのうちに足を踏み入れてしまっているのである。

問題はそのことに気付くかどうかだ。

よくぞ、ご相談いただいた。

これからも地域医療一筋に頑張ってくだされ。

サンライズ

今年も、八月三十日(日)、午前十時より、終日、永代経法要を営ませていただく。

客僧のご法話もありがたいが、いつものパターンでは飽きがくる。

ということで午前は、守山市民病院前院長の辻雅衛師(現事業管理者)を招聘することとした。

講題は『老後の健康管理』で90分の講演である。

『たまにはこういったスタイルも宜しいのでは、』と総代に相談して組み入れた次第である。

午後の一座法話は愚僧のお話しで纏める予定だ。

思い起こせば、布教師試験を受けたのは10年余り前。

常に他所寺院で布教をこなしてきた。

ミニ法話は聞法会でしょっちゅう行っているが、拙寺での一座50分の布教は初めてである。

お互いの裏表が解っているだけに難しく、些か緊張は隠せない。

上手く辻先生のご講演に繋がるよう仕上げたいものである。


サンライズ


我が国は、唯一の戦争被爆国である。

『安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから』と、広島の平和記念碑には記されている。


では、過ちを犯した加害者は誰なのか。

日本か、米国か?


古来より喧嘩両成敗と云われているが、武器を持たない一般市民に対して投下したのは米国なのである。

しかも、一度ならず二度も。

我々は、この非道極まりない事実を忘れてはならない。

『原爆投下は戦争を終わらせるために必要だった。』という神話は、何処まで行っても幻想でしかない。

現在でも戦争は終わってはいないのである。


我々は、こんなバカげた神話に耳を傾けることなく、この残虐非道を後世に、世界に訴え続ける必要がある。


サンライズ

ここ数日、孫と娘が帰ってきて毎日がキャンプの延長のような感じ。

そして、BBQの定番と云えば焼肉だが、色々とネタを変えてみるのも面白い。

鯖の姿焼き、塩鮭、海老などの海鮮もなかなか乙なものだ。

カリカリベーコンやチキンナゲットもいける。

中でも変わり種は厚揚げである。

あっさりとしていてソースがよく絡むのでいくらでも食せる。

でも、やはり最後は焼肉に戻るのである。


お聖経も同じかも知れないな。

般若心経、法句経、遺教経など、なかなか上品な感じがして魅力的である。

でも、人間はいつも上品ぶってはいられない。

最後はやはり浄土三部経に落ち着くのである。

人間の善悪を越え、無条件の救いを誓われた阿弥陀さまのお慈悲に背くことはできないのである。


サンライズ


いよいよ、地蔵堂の完成が近づいてきた。

何とか孟蘭盆会(うらぼんえ)法要に間に合いそうだ。

お堂は、明治に創建されたものだが吹きざらしのためシロアリにやられてしまったのである。

今般、湿気を防ぐため、前面に20Cmほど基礎部分を移動した。

とは云っても発注したのはお堂だけで基礎は世話方三名のご協力を得て行った。

弱小寺院ならではの所作である。

炎天下で金属工具が持てないほど灼けてくる。

猛暑の中、汗は吹き出るが尿は出ない。

ビールを思い浮べながらの忍耐作業だった。

麦わら帽子を被る姿は、まるで傘地蔵そのもの。

きっと、お地蔵さんも喜んでくれるだろうな。


サンライズ


昨日から孫三人を引き連れて娘が里帰りしている。

野郎三人、見事に七歳、四歳、二歳だ。

平素は田舎の閑静な寺院なのだが、まあ、あれやこれやと騒がしく賑やか極まりない。

『親の顔が見たいものだ!』と思うも我が娘。

振り返れば、騒がしいのは子供ではなく愚僧の心なのであった。


サンライズ

私達、念仏者は限りあるいのちである。

だから余計に長さに執着するのだろう。

仏教では仏さまの”いのち”のことを無量寿という。

例えば、仏さまの世界がいただけるようになれば、その世界に通じていく。

するとその一瞬、無量寿を感じ取れる世界が展開していく。

つまり、今という一瞬の中に永遠の時間を感じ得て、広大な世界へお任せするという展開である。

その時、時間の長さにとらわれていた量的なものが質に変わっていくのである。

歎異抄第1章には、「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」とある。

阿弥陀さまのはたらきにお預けするということだ。

こうした広大な世界では、長さとか量ではなく質的に永遠という時間の接点を持ち得ることとなる。

私達が願っている本当の長生きとはこういうことなのではあるまいか。


サンライズ


今年も昨年に引き日野町のグリム冒険の森でキャンプを張った。

四家族で約16人だ。

勿論、ネタは定番通りのBBQにカレーである。

やはり炭火でのBBQは最高に美味い。

そして、朝は手作りパンと自家製ピザだ。

ピザと云えば石窯の対流熱で焼くのだが石窯がない。

そこで思いついたのが、アルミパンである。

アルミパン二枚で上下に蓋をし、上蓋を5Cmほどずらしておく。

すると炎に対流が生じて、前後を入れ替えれば上下こんがりと焼けた。

思いがけない発見だった。


明けて翌日、甲賀市の黒滝養魚場へ向かった。

鮎20匹の手づかみ漁に子供達は大はしゃぎ。

手づかみに集中する子、網で掬おうとする子、大声ではしゃぐ子、わーわーと泣く子、それぞれが蓮華のように青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光に輝いていた。

待ち遠しかった夏休みも、以外と短いのかな。


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