ひのきょうのブログ -28ページ目
遂に、携帯電話が罹患してしまった。
変なメールばかりが2~3日前から空爆の如く降ってくる。
たった一回の通知で50通に及ぶ爆弾メールだ。
何だこれは!
放送禁止用語の連発!
怪しげな女性からの誘い!
大金の振り込み通知!
最後通告!
などもあって面白いが気持ち悪い。
最早、脅しとも思えるメールも舞い込んできた。
悉く怪しいので、中味を開いたこともなく返信もしていない。
でも、『返信してどうなるのか?』というのも興味は無くはない。
まあ、すべてが怪しいのである。
携帯電話のメールアドレスは親しい者以外には知らせていないのに何故だ。
未だに愚僧はスマホではなく、ガラケイを使用しているからなのだろうか。
しかし、まあ暇な奴もいるものだ。
恐らくパソコンを駆使してメール発信し続けるソフトを開発しているに違いない。
かといってアドレスを変更する気はさらさらない。
そんなわけで、本日朝一、携帯会社に相談に行ってきた。
治療方法はいとも簡単だった。
蓋を開ければ、すべてがパソコンからの迷惑メールだったのだ。
従って、パソコンからのメール配信を遮断してもらった。
今夜は静かな夜を迎えられそうだ。
皆さんもメール返信したり、中味を覗いてはなりませんぞ。
サンライズ
あの維新の橋本氏が、改めて大阪維新の会を立ち上げるという。
そして、能力不足の職員を解雇すると報じられていた。
じゃあ、『能力の有り無しは誰が何を根拠として判断するの?』ということである。
彼に少しは共感する面もあったので注視していたが、単に己の意にそぐわないからというのは極まりなくおかしい。
じゃあ、『己の意とは何ぞや』ということである。
結局は、人と人との関わりでしかない。
逆に申せば人を育てられない結末がそうさせたのではあるまいか。
最も大切な人間同志の絆が、己の意にそぐわないからといって自らの権力で切り捨てられていく。
実は、そんな奴は何処にでもいる。
野球で申せばY軍みたいなものだ。
少し打率が良いから、防御率が良いからと言って、そこら中から卓抜した選手を札束で買い集めてくる。
しかし、必ずしも良い結果を生むとは限らない。
つまり、環境も異なるが、リーダーの素質が問われるのである。
通常は、そうなる前に他の意見も聞くだろう。
しかし、それも言えない環境となってしまっているから馴染めない。
権力者が裁判官を併任してはならないのである。
権力者でさえも処罰できる裁判官がいてくれるからこそ民主主義が成り立つのである。
決して、首長は裁判官であってはならない。
世間を欺くことはできない。
『能力不足はどちら?』ということである。
残念だが、崩壊の時期が到来しているような気がしてならない。
地元の身近な組織も同じような状況に瀕しているような気がする。
サンライズ
前回もご紹介したが、アボガドは生命力の強い樹木である。
初夏に発芽し、すでに背丈が30Cmを越えてしまった。
しかも、葉っぱが異常に大きくて琵琶の葉っぱによく似ている。
室内に置いても観賞用として充分である。
ところが畑に同じような葉っぱの木が植わっているではないか。
しかと覚えてはいないのだが、どうやら昨年、種を植えしていたようだ。
それが越冬して1,5mに育っている。
愚僧はすっかり琵琶の木だと思い込んでいたが、よく見ると葉っぱはアボガドである。
そんな訳で鉢植えの方は娘にくれてやった。
皆さんも果肉を食した後、種をポイ捨てせずに試しに植えてみなされ。
結構、発芽率は高いですぞ!
しかし、果肉が少しでも残っていると発芽しないので要注意を!
サンライズ
どんな宗教にも『信心』という言葉が付きものである。
文字通り『信じる心』なのだろうか。
ところが、信じようとすればするほど余計に信じられなくなってしまうものである。
では、何を信じるのかということである。
そのうち、何がというものさえもわからなくなってしまう。
邪教では、『貴方の信心が足りない。』とか、『そのお布施額では成就できない。』などとすぐに多様な形を求めてくる。
つまり、信心を得たいという弱者につけ込んだ悪徳商法なのである。
歎異抄第1章に『念仏申さんと思い立つ心のおこるとき、すなわち、摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。』とある。
この『念仏申さんと思い立つ心』というのは、あたかも能動的に聞き取れるが、そこに至らしめるのは如来のはたらき意外の何ものでもない。
そこに至るまでの平素の聞法生活が大きく関与してくるのである。
過去の出遇いおいて、口から発するお念仏には違いないにしても、その方の体を通してお念仏が聞こえてきた方がお二人がおられた。
このお二人に共通していたのは、意識して申されたお念仏ではなかったように聞き取れた。
自ずとひとりでに発せられたお念仏であった。
気がつけば、阿弥陀さまがその方の体を通して、その方の口から発せられた自然の姿であった。
亡くなられる前、『娘や息子を呼んでくれ!』もなく、最後の最後までひたすらお念仏であった。
人生最後の遺言がお念仏というのは羨ましい限りである。
『この私も浄土往生が間違いない!』という確信が称えさせたのである。
この確信は己のはからいではなく、やはり平素の聞法において如来より賜るものなのである。
サンライズ
父の一周忌が近づいてきた。
日が経つのは早いもので、この12月27日は祥月命日である。
目下、一周忌法要の段取りに追われている。
今まで感じ得なかった父の言動が妙に響いてくる。
実に不思議なものだ。
夕食を盛付けしている時でも、つい、父の分まで考えてしまう。
行き詰まった時、『父だったらどうするだろう?』と問い聞くことがある。
手つかずの書斎に入ると父の匂いがただよってくる。
生前、父が曾孫によく言っていた言葉がある。
『仏さまは、いつも見ていてござる。聞いてござる。知ってござる。』と。
つまり、仏の見・聞・知(けん・もん・ち)である。
まさしく、その相(すがた)は”いま、ここ”に還ってきている。
サンライズ
ご心配をお掛けした足の甲も日々軽快に向かいつつある。
しかし、正座は到底無理である。
電気が走るような電撃痛が襲ってくる。
ところがだ。
困ったことに、明日は隣寺の永代経法要が営まれる。
愚僧は導師を務めねばならず、衣を纏って胡座(あぐら)をかくわけにはいかない。
胡座は、両足が畳に接するので行儀が悪い。
従って、お釈迦さまのように結跏趺坐(けっかふざ)でもOKだが、これも難しいので半跏趺坐(はんかふざ)でやろうと思う。
結跏趺坐とは座禅などで瞑想する時の正しい座り方だ。
「趺」とは足の甲を意味し、「結」とは趺を交差させ、「跏」とは反対側の足の太ももの上に絡める座り方で、丁度、両足を結んだ形となる。
因みに、半跏趺坐とは胡座の前足を反対の太股に乗せるだけだ。
いずれにしても、衣の裾を広げて座れば座り方が如何様であれ、参詣者には見えないのである。
衣に感謝せねばなるまい。
サンライズ
それは自宅ダイニングをリフォームしたついこの間のこと。
深夜にTV録画を見ていたところ、頬被りこそしていなかったが土足で突如、現れ出でた。
奴は床の幅木に沿ってスタスタと走り抜けていった。
あっ、ハツカネズミだっ!
すでに家の中は拡張工事が終わり袋小路である。
すぐにドアを閉め奴を包囲した。
しかし、なかなか降参しない。
敵も然るもの、段ボール箱を通り道に置いたが即座に出ていく。
ここは知恵の出しどころだ。
奴らはすぐに何かの物陰に隠れようとする習性がある。
今度は段ボール箱に丸めた新聞紙を入れておいたら案の定、出てこなくなった。
見事に逮捕だっ!
余りにも図々しい奴なので俗名と罪名を命名してやった。
俗名は『猫』、罪名は『家宅侵入罪』だ。
囓れない金バケツに監禁したので脱走は無理。
二日後、服役が満了したので圏域外に釈放してやった。
サンライズ
連休前に、自治会長が来られ、愚僧を次期『人権擁護委員に推薦したい。』との要請があった。
というのも前住職が8期24年間もの永きに亘り人権擁護委員を務めてきた経緯があるからだろう。
愚僧は、父のような教育者でもない。
専ら病院管理では病院企画の中で臓器移植の件で少しは人権を囓ったことがあり、また、市の部長経験において僅かに人権を学ばせてもらったことはある。
ただ、それだけだ。
こなせるか疑心を持ちつつ坊守に相談したところ、『誰にでも声が掛かるものではない筈ですよ。謹んでお承けになったらいかがですか。』と諭されてしまった。
しかし、厳しい経歴審査があって、最終は市議会の議決が必要となるとのことである。
とりあえすは承伏したのだが、審査の段階で除外される可能性は経歴からすれば大だと思う。
まあ、自慢じゃないけど紹介しておこう。
一つ目は、平成8年のS看護専門学校建設工事の入札競売妨害で逮捕された元栗東市の大物議員のN氏の重要参考人とされてしまったことである。
当時の、建設企画事務のすべては愚僧だったので仕方がない。
幸い、請負業者からの苦言は多かったが愚僧には何の軋轢も強要もなかったので、建設工事は公正公平に務め、何の追求もなく淡々と書面証言だけで終わった。
そして、二つ目は、平成20年にM市民病院に事務長就任した時、『看護師免許を持たない職員を就労させた。』という事件だった。
これも、愚僧は平成19年の5月1日に事務長に就任したのだが、被疑者は同年の4月1日に採用されていたのである。
しだがって、愚僧は採用合否の経緯は知る由もない。
実は、看護師国家試験に合格していたにも拘わらず免許の交付手続きを怠っていたのだ。
こんなことは想定し難いが、愚僧が35年間勤めてきたS病院ではそのような手続きは当人に変わって採用病院が代行してきたので一度も問題は生じなかった。
実は、ここに落とし穴があったのである。
当然の如く免許申請は当人の義務でしかない。
そもそも当たり前の話しだろうが、官公立病院では当人の責務には関与しないのである。
結果、被疑者は免許を持たずして患者さんに投薬を注入し、採血したという『国家免許を保持しない者が第三者に与えた肉体的侵襲行為=(傷害罪)』に問われたのである。
つまり、その命令を下したのは主治医、主治医を管理する院長、院長を管理する病院経営事務責任者として当時の事務長が被疑者となってしまったのである。
よく考えて見れば、5月1日に事務長就任した折に全職員の免許(医師・薬剤師・看護師。放射線技師・検査技士・栄養士など)を確認かどうかだが、常識の範疇なので何も確認してはいなかった。
愚僧はそれを見逃していたという被疑になってしまったのだが、人を疑うような行為は誰もしないのが常識である。
当時、愚僧は免許の疑義を疑った時点で当人の業務を停止させ、警察に報告したのが評価され、それが自首行為と見なされて無罪放免となった。
まあ、このどちらもマスコミに報道されてしまったのである。
さて、どういう判断が下ることやら。
サンライズ
今日、お彼岸法要を勤修した。
とは言っても参詣者はない。
前日から里帰りしている娘夫婦と孫三人が参詣してくれた。
昔からご門徒さん方には案内せず、住職としてお勤めするしきたりとなっている。
古来より、『暑さ寒さも彼岸まで。』と言われるように、日本人は年二回のお彼岸を生活の境目としてきた。
お彼岸とは、此の岸つまり此岸(しがん)から彼の岸に”往きて生まれる”ことを意味する。
彼の岸とは極楽浄土のことであり、阿弥陀さまのはからいによって娑婆世界から極楽世界を思い描いてきたのだろう。
まあ、愚僧流に申せば、穏やかな春と秋の砌に身も心も暫し休め、我を省みるいい時節でもある。
そして、こんな自分に気付かせていただくことが仏法への第一歩に繋がるのである。
サンライズ
今日は母の定期診察日である。
いつものお薬を処方願うための受診だ。
母は『手が震えて年賀状が書けない。』と訴えた。
主治医は、『だったら、息子さんに書いてもらってサインだけすればいいですよ。』と諭してくださった。
横から愚僧が、『出す相手もいないのにー。(友達の殆どが亡くなっているの意味)』と言うと、即座に『いつも、こんなふうに茶化すんですよ!』と母が返した。
その反応を見て先生は、『すごく脳の回転がいい。こういう会話がとても大切なんですよ!』とフォローしてくださった。
そして、愚僧もついでに整形外科を受診した。
M市民病院の消化器外科と整形外科の待合は背中合わせで丁度良い。
先ずはレントゲン写真だった。
右足首4方向という指示は、被爆4回という計算である。
暫くして、診察室によばれ、M医師は眉間に皺を寄せて怪訝な顔で写真を観察していた。
そして、二言、『太い骨やな!』、『綺麗やし、何もないわ!』だった。
サンライズ