ひのきょうのブログ -27ページ目

ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


時計とは時の秤のこと。

わざわざ、計らなくても見れば解る秤だ。

見ているだけで時は過ぎつつ、計られていく。


古代インドでは一日の24時間を昼と夜に分けていた。

昼間12時間、夜間12時間という設定である。

さらに、この12時間を約4時間毎の三つに区分し、晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜と称していた。

現在でも、寺院法要の時刻表示に、晨朝、日中、初夜という表現が残っている。

そこで、『逮夜はどのあたり?』という疑問が生じてくる。

逮夜はの”逮”は『待ち望む』という意味があり、人が亡くなられた前夜のことを指す。


先日もある門徒さんから質問をいただいた。

『ご院さん、初七日の数え方がよくわからん?』という問いだった。

その方は、『亡くなられた日からどう数えても七日目にならない。』と仰る。

例えば、日曜日に亡くなられたとすれば、日曜日から数えて7日目は土曜日だ。

これを察して『おかしい。』と云われるのである。

中陰の49日間のことを別名『七日逮夜』とも云う。

従って、土曜日の逮夜は前日の金曜日ということになる。

よって、日曜日に亡くなられた方の中陰は、金曜日毎に訪れるという計算である。

年忌法要もこの数え方が基礎となっているので祥月命日の前にお勤めする。

このお話をさせてもらったら、やっとご理解をいただけた。


時の秤は残酷で恐ろしい。

何もしなくても時は過ぎ行く。

刹那、刹那を大切にしたいものだ。


サンライズ


来週の月曜日にある方の面談を受け入れた。

少しは目が覚めつつあるのか勉強したいらしい。

無知が無知のまま、将来、愚痴を吐かないための面談と言えよう。

しかし、結末は別の次元のような気がする。

でも、それはこの世相を生きる以上、仕方のないこと。


昔から駆け引きは飴と鞭の応用と云われてきたが、大して腹も減っていないのにご馳走を見せつけられると、己が食せるかどうかも判らないまま、つい、不安がよぎるものだ。

己の胃袋も知らずに鞭の痛さの覚悟もないまま、飴の甘さに夢見てしまう。

日本人がよく侵す朝食バイキングみたいなものだ。

結果、席を立つ頃にはご馳走を見るのも嫌になる。

つまり、安心の中にいながらも、安心が見えないままで更なる安心を求めたくなるのである。


例え話で恐縮だが、行政を預かる者はもっと衆生の立ち位置と座標を分析し、丁寧に説明する必要がある。

愚僧はもとより遠慮がちな性分なのか、今日まで知足を信念としてきた。

そして、崖っ淵でも常に『失うものは何も無い。』という瀬戸際で勝負してきた。

本当のところ一寸あったけど、他でもメシを食えたからだ。

そして、『糞喰らえ!』と思われつつも首にはならなかった。

大概の奴等は我が身の可愛さに兜を脱いでいった。

そして、未だ何かにしがみつこうとしている。


愚僧には有も無もない。

どちらに転ぼうともそれだけのお話し。

さて、残るは『皆さん覚悟はよろしいかな!』だけだ。


サンライズ


『最近、超常と名の付く番組が多過ぎる。』と息子が怪訝そうに言った。

それもそのとおり。

よく考えれば取材怠慢にして、外国の輸入ビデオを買い集めて放映しているに過ぎない。

そして、合間に暇なタレントが『凄いねえー。』とか、『なに、あれっ!』などと品評しているだけの番組だ。

しかも、超常といいながら、やらせやCG画像丸出しも多い。

特に隣国の映像はひどい。

でも、上には上があるもので、やはり卓抜しているのは大陸だ。

思わず笑えてくる。

それが、お茶の間のゴールデンタイムに放映されるからたまったもんじゃない。

そして、ピークになったところで宣伝が入る。

やっと宣伝が終わったと思ったら、次は先ほどの映像リピートからはじまる。

番組の正味としては半分の時間にも満たないだろう。

見終わって、息子が口を開いた。

『結局、手の凝ったお笑い番組やな!』と。


サンライズ


暫くブログ更新を休ませていただいて申し訳ない。

大学拳法部の同期会に参席していた。

隣寺で勤まった戦没者追悼法要の参勤し、直ちに野洲発姫路行きの新快速で約2時間、姫路に着いたのが午後5時半だった。

何とか宴会の午後6時に滑り込み、久々の実酒に酔いしれた。

一年ぶりの再会だったが、歩き方と性分だけは40年前と少しも変わってはいない。

一体、何があったのか他界した同期、音信不通の同期もいた。

学連全国体会を制覇した猛者どもが、今は愚僧も含めみんな爺さんになっている。

思い出話しはいつまでもつきない。

翌日は、新たに改修が終わった姫路城を見学し、二日間酒浸りのトリップを終えた。

来年は北九州の予定だ。


サンライズ


昨日、自治会の回覧板に歳末助け合い運動の封筒が挟まっていた。

今年も身の丈に応じた寄付をさせて頂こう。

人が人を『助ける』のは尊いこと。

しかし、人が人を『救う?』というのは少し違うように思う。

確かに、救命救急という言葉には『救』という字が充てられている。

しかし、その意味は人が人の命を助けること。


過去の医療現場では多くの救助を見てきた。

中には、助からなかった人もおられた。

昔から、人間の欲望や困った一部のことに手を貸すことを『手助け』という。

つまり、手助けとは人の手による一部の助けなのである。

だから『手救い』とは言わないのである。


では、『救い』って何だろう。

それは、許しの世界にのみ存在するような気がする。

『そんなお前さんでは』という『責め』ではなく、『そんなお前さんでも』という『許し』だ。

人間同士では、『もう良い』という許しの言葉はなかなか出てこない。

今、まさに頑張っている人に『頑張れ!』はない。

『頑張れ!』と励ましながらも実は『責め』ている。

これが人間(娑婆)世界だ。


やはり、『責め』はあっても『許し』はない。

『もう、それ以上頑張らんでも、そのままで良い』と許しを与えてくださるのは仏さまだけだろう。

それは、まさに許しの世界である。

苦悩する人間をそっくりそのまま救い摂れるのは、やはり、阿弥陀さましかいないのである。


サンライズ


妙好人源左(げんざ)さんは、「偽(にせ)になったらもうええだ なかなか偽になれんでのう。」と申されたという。

自己中心の私達は、なかなか自分の「偽」に気づくものではない。

自分そのものが「にせ」であり、そのことに気づくということは、すでに真実の光に照らし出されたということである。

親鸞聖人は正像末和讃いおいて、

 浄土真宗に帰すれども 真実の心は ありがたし 
 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

と詠われている。

あの親鸞聖人でさえ『真宗の教えを信じていても真実の心はなく、嘘偽りの我が身であって、清浄の心もさらにない。』と恥ずかしいニセモノの自分を正直に暴いておられる。

つまり、『私が変わるのではない。真宗の教えによってあるが儘の私が照らし出される』ということである。

『でも、安心しなさい!』とまでは書かれていないにしても、そのことを阿弥陀さまは、ちゃんと初めから見抜いておられ、大悲のお心で『救わずにおれない!』と、今ここで私に願いをかけてくださっているという味わい方に続く。

阿弥陀さまは、こんな私にも、常にはたらきかけてくださっているのである。


サンライズ


最近、『お説教に躓いている。』という僧侶に出遭った。

今まで『次から次へとお説教ネタが思い浮かんできたのに何故か急に出なくなってしまった。』という。

実は愚僧もこの症状に近い。

勉強不足もあって、なかなか良いお話しが思い浮かんでこない。

先日のお説教も恐る恐る筋書きを追ってしまった。

良いことを話そうとすればするほど上手くいかない。

つまり、自分が良しとしても他を感動に導けるとは限らないのである。


そのお寺は、午前の参詣者は全員が女性で、午後は男性と決まっている。

予め二席と聞き2~3のネタを準備していったが、午前も午後も同じネタを披露させていただいた。

やはり、一席目は受けは今一だった。

しかし、二席目の午後は筋書きを追わないことにした。

夜中に眠た目を擦りながら鉛筆を舐めて編集したシナリオにろくなものはない。


そもそも、お説教というのは自分がいただいた感動をオリジナリティーを以て聴聞者に伝えていくことである。

お讃題と導入までは筋書き通りとし、以降は自分が感じ得たことを丁寧に話させていただいた。

手前味噌ながら前住職の命終についての体感話しだ。

しかも、これは愚僧しかできない。

結果、同じお話しでも午前と午後とでは雲泥の差が生まれた。

また、少しの自信をいただいた。

このまま脱皮できるのかな。


サンライズ


長年、生きていると色々な場面に出くわすものである。

あるが儘で良いものを、『あれはこうだ』、『これはああだ』などと様々な穿鑿が飛び交う。

どうでもええレベルの話しでも、あれやこれやと能書き垂らす人はどこにでもいる。

一連の所作は、そう考える愚僧自身も含めて空ごと戯言でしかない。

所詮、『奴が、私が、』では、なかなか真は見えてこない。


親鸞聖人は、歎異抄結語に、 『唯、念仏のみぞまことにておわします。』と括られている。

簡単な言葉だが、とても味わい深い言葉だ。


先日、TVで発達障害(アスペルガー症候群)の子供達を預かる筑波大学の夏期公開講座の番組が流れていた。

無関心な子、他を認めない子、勝手に話し出す子などアスペルガーは協調性に欠けるところが悉く著しい。

その子は、『会話が通じなければ生きている意味がない。』と言った。

教授は、『全く意味のない人間ているのかな?』と問い質したが、やはり『意味ないじゃん。』と言い切った。

しかし、その子の祖父が夏期公開講座の期間中に急死したのである。

その子に対して人一倍、厳しい祖父だったらしい。

生前は、『消えていなくなれば・・・』と思ったこともあるようだ。

ところが、実際に目前から消えていなくなったのだ。

そして次に、その子がお仏壇の前で手を合わせてお参りする映像が流れた。

ちゃんとお参りしているが、何がその子の心を動かしたのだろう。

そして、講座修了後、教授とのメール交換では『人間は生きているでけでも大きな意味がある。』と応えた。

つまり、いのちの大切さを思い知ったのだろう。

あるが儘のさまざまな出来事にもひとしずくの真実はある。

人間である以上、何事も穿つ前に一遍でもいいからお念仏を称えてみたいものだ。

ひょっとして、違った世界が開けてくるのかも知れないな。


サンライズ


昔、ガンの研究に没頭していた医師がいて、その医師に『最もガンに多い血液型って何ですか?』とつまらん質問をした。

すると、その医師は、『日本ではA型だ。』とキッパリと応えてくださった。

『じゃあ僕はB型だからガンには罹患しにくいですよね!』と自惚れ発言をしてしまった。

その先生から返ってきた言葉は、『でもね、日本人の血液型はA型が最も多くて39%、次にO型で29%、3番目はB型で22%、最も少ないのはAB型で10%なんだ。だから、君の質問は日本人の血液型の大小の話しであって、必ずしもガンの発症率ではない。』と諌められた。

昔から、『A型は神経質、B型は利かん坊の猪突猛進、O型は原始的、そしてAB型はケチで金銭面にうるさい。』などと勝手な邪推をしたものである。

従って、A型は神経質にして、ガンの発症率が高いという裏付けにはならないのである。

しかし、現に血液型によっては偏る疾患もある。

それは現時点での統計上のデータであって、一概には言い切れないのである。

おしなべて追跡すれば『何の疾患も、その発症率は皆平等』ということである。

つまり、平等というのは、己にとって都合の良いものも、悪いものもすべて平等ということである。

『人間である以上は誰でもガンに罹患する』ということに他ならないのである。

だから、そんな神話に躓(つまづ)くことなく、常に検診を小まめに受けるべきなのである。

最後に残ったのは、『早期発見、早期治療に優るものはない。』ということである。


サンライズ

明日、急にお説教を頼まれた。

偶然にも予定がなく、ありがたいご縁としか言いようがない。

たぶん本命の布教師さんに急用が生じたのだろうか。

愚僧はその急用を知る由もない。

ひっとして病気になられたのか、或いは親族にお葬式でもあったのか?

まったくにして、お説教の依頼を忘れておられただけのことかも知れないな。

憶測は、果てしなく続く。


しかし、愚僧にお説教のチャンスを頂いたということだけは、紛れもない事実である。

ひとり憂い、ひとり歓び、ひとり悲しみ、ひとりで慶ぶ。

やはり、人間はご縁を操作できるものではない。

ご縁によって操られているだけなのだ。


そんなことより、早くネタを作らねば・・・!


サンライズ