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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


世間では、仕事など社会的に成功することを出世(しゅっせ)という。

『あの人、出世しやはったんやてー。』などと聞くと前はどうだったのか大凡の見当がつくものだ。

また、ツバス⇒ハマチ⇒ブリなどのように成長につれて名前が変わっていく魚のことを出世魚という。

仏教で云う出世には、『迷いの俗世を離れ、仏道修行に励む。』という出家の意味と、『お釈迦さまが衆生を救うためにこの世にお生まれになった。』という二通りがある。

どちらも共通しているのは『救済』だ。

正信偈にも『如来所以興出世 唯説弥陀本願海』とある。

この場合の『如来』とは、阿弥陀如来ではなく釈迦如来を意味する。

読み方は、
 『 如来、世に興出したもう所以(ゆえん)は、
  ただ弥陀の本願海を説 かんとなり 』
である。

つまり、『阿弥陀さまの本願(仏説無量寿経中四十八願)を説くためにこの世に生まれてこられた。』と親鸞聖人はいただいておられる。

我々も単なる出世魚であってはならない。

出世の本懐を明確にすべき必要がある。


サンライズ

先週土日は真宗大谷派善久寺様より報恩講布教に招かれた。

二日間で計三席だ。

前もってある噂を聞かされていた。

『あそこのお同行は耳が肥えていて皆さんが真剣!』と。

勤行前に庫裏に到着するも座敷机はなく、法中方約10名が十六畳の書院に左右対照に揃っておられた。

大谷派特有の雰囲気が漂っている。

そして、中央の上席には座布団がひとつ光っている。

先ずはお内佛に合掌、次に法中方に挨拶。

あつかましくも、中を割って中央に座らせていただいた。

皆さん無言で、のっけから緊張だ。

ご住職から『今日は町内にお葬式があってお参りが少ないようです。』と聞かされるも本堂に向かうとほぼ満堂だった。

緊張の中、いよいよご法話をはじめさせていただいた。

評判通りお同行の食いつきが凄い。

頷かれている方、怪訝そうな方もおられたが目の色が違う。

やっとのことで三席目を終え、二日間の総括を始めようとした時、拍手が始まった。

合掌姿は経験したことがあるが拍手を頂いたのは初めて。

終始一貫して難しいお話しはしなかった、いや、愚僧にはできない。

最後の精進あげ(おとき)にも出席させていだき様々なご講評をいただいた。

中には、『次回はギターの弾き語りを!』というオハーもあり、いい勉強をさせていただいた次第である。

善久寺の皆様、愚僧に機会を授けてくださり誠にありがとうございました。


サンライズ
本日も鐘楼に上がって鐘を衝いた。

いつもながらの所作である。

すると、今日もお馴染みの子供さん達が来てくれた。

きっと、兄弟だろう。

山門の外から愚僧の姿を眺めている。

『衝きたい?』と聞くと、『吽(うん)』と顎が頷いている。

『おいで!』と声をかける。

すると、自転車を投げ捨てて、満面の笑顔で鐘楼の階段を駆け上がってくる。

実に逞しい。

余計な力を入れると的が外れてしまう。

まさに、『いやーん』という音だ。

なかなか『ゴーン』という響きは生れない。

『取っ手の紐を引いて放すだけだよ!』と諭してあげた。

山門の外ではお母さんが、子供の姿をジッと見ている。

いい音が出て子供たちはとても嬉しそうだった。


愚僧と子供たちとの間に『阿吽』が生れた。

何でもそうだが、『阿』が無いと『吽』は生れない。

五、六歳の子供たちと呼吸があったのだ。

今日もいい一日になりそうだ。

サンライズ



古来より死の定義は、国、文化、伝統、宗教などの影響を受けてきた。

個々の考えや法制度、倫理観などによって様々な見解がある。

生死の境目がどこかにあって、それを医師が診断すると思われているのかも知れないが、非常に難しい問題である。

というのも、生きている状態の定義を明確にしないと、この境い目も定義できない。

古来より日本では命は息と強く結びつけられてきたので、息が止まる状態のことを死と呼んでいた。

あまり良い表現ではないが、『息の根を止める。』という表現があるように、息は命を表していたのである。

現在では、細胞学的にはどうであれ、社会的には境い目を決める必要があるため、法律上は死亡診断書の『死亡時刻』をもって『この時点で死んだ(一般的には心臓死)』ということになっている。

昭和40年代頃までは「死の三兆候」というのが定められていて、
 ・自発呼吸の停止(息をしていない)
 ・心臓の拍動の停止(脈がない)
 ・瞳孔が開く(対光反射の消失)
を確認して『人の死』を決めていた。

しかし、死後も数時間は、四肢の筋肉に電気刺激を与えると筋肉が収縮するので、三兆候がなくなっても人体のすべての細胞が死んだわけではない。

死後に髭が伸びるのもこれと同じだ。

かつて、『棺桶に入った人が生き返った』というお話しもあったが、これは、当時の診断技術の問題であって、生き返ったのではなく実は死んでいなかったと推測される。

平成7~8年頃の臓器移植の問題が出てくるまでは、概ねこの三兆候で処理されていたのである。

現在の医療現場では、先ず初めに生きていることの状態がチェックされる。

つまり、①心拍、②呼吸、③血圧、④体温であって、これらが正常か否かである。

これを専門用語でバイタルサインと云う。

従って、バイタルチェックにより生命の兆候が覚知できない時点で瞳孔を確認し、死亡が診断されるのである。


ところが、さきほどの臓器移植の問題が出てきた段階で『ハテ?』と考え込まざるを得なくなった。

当時、心臓が動いている人から臓器を取り出すことは殺人行為に値する。

よって、脳の状態によって心臓死以外の生死の線引きを提唱するようになり、やがて『脳死』という新たな概念が生まれるようになったのである。

脳死を断定するには『脳死判定』が必要なわけで、移植に関与しない二名の判定医が行う。

さらに、その6時間後に2回目の判定を行い、この判定が終了した時刻をもって脳死と診断するのである。

因みにガイドラインによる脳死判定は、
 1 深昏睡であること。
 2 瞳孔固定 両側4mm以上であること。
 3 脳幹反射が消失していること。
 4 平坦脳波であること。
 5 自発呼吸が消失していること。
とされている。

しかし、臓器提供意思表示カードに提供のサインをしていても必ず提供できるとは限らない。

使い物にならない劣化臓器もあり、またHLA(ヒト白血球抗原)に適合していないと移植できないのである。

以上、知っておいて損はないだろう。


サンライズ


今から2年前、かつてのご門徒さんであった方が急死された。

やはり、故人の遺志により葬儀は他宗で執り行われた。

その方の親の代までは拙寺のご門徒さんで、別格の篤志者でもあった。

ところが、突如、親の葬儀の際に一悶着が起こり、他宗で葬儀されることになってしまったのである。

当時、ご門徒に引き留めようとするご親戚方と居直る息子さんとの仲違いを感じたので、『宗派はどうであれ、それはそれ。』と承伏した次第である。


ところが、先日、その方のお子さんが拙寺を訪ねてこられた。

『父は言い出すと聞かない性分でした。祖母も父もご院さんに葬儀をしていただくことが叶いませんでしたが、これからは宜しくお願いします。』との挨拶だった。

『二つのお寺に帰依するのは大変でしょうから、無理なさらんで。』と愚僧が応えるも、『是非とも・・』と返された。


そして、過日、祖母の二十七回忌法要を拙寺でお勤めになった。

きっと、お婆ちゃんの『拙寺(佛眼寺)にお参りしなさい。』と言う声が聞こえたのだろう。

目には見えなくても間違いなく繋がっている。

親鸞聖人は教行信証に、
  前に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは前を
    訪へ  連続無窮にして、願はくば休止せざらしめんと欲す

と申されている。

ご先祖方は仏となって、先に浄土に生まれる者は後を導き、後に生まれる者は先を訪(たず)ね、連なって途切れることなくお参りすることを願っていてくださるということである。

それは、亡き方を通して『苦しみを背負うありのままの私を見捨てずにはおけない。』という阿弥陀さまのお慈悲に出遇われようとする自然の姿である。

『弔(とむら)う』と『訪(とぶら)う』は、まったく意味が違う。

故人を偲ぶだけではなく、故人を訪(たずね)ることが真宗の訪(とぶら)いなのである。


サンライズ


仏教では、自らが他の生き物の命を絶つことを自殺と言う。

生きながらえるために魚や鳥を殺したり、蜂や蚊に刺されて怒りのあまりに殺してしまうことだ。

俗世間で言う、自らが首を吊って死ぬことではない。

私達は、『生きるために・・・』とか、『害になるから・・・』などとどれだけ多くの生き物を殺してきたのか。

一方、他殺というのも仏教学的には他の者に頼んで生き物を殺す罪のことだ。

これも、自らが殺したのと同罪の扱いとなる。


魚屋さんは魚を、肉屋さんは牛や豚を殺すが、魚や肉を買って食べる人がいなければ、それらの人達は殺生する事由はない。

口にした瞬間、直接手をかけなくても他殺の罪を犯しているということになる。

さらには、随喜同業(ずいきどうごう)というのがある。

他人が生き物を殺しているのを見て歓ぶ罪だ。

檻にネズミがかかって処分に困っている時、『まかしとけ!』と引き受けてた人が檻ごと水中に沈めたとしよう。

そこには、もがき苦しむネズミを見て、『ざまぁ、見ろ!』と歓ぶ人がいる。

依頼された人は『自殺』の罪、依頼した人は『他殺』の罪を造り、『ざまぁ見ろ!』と歓ぶ回りの人々は『随喜同業』の罪を造っているのである。

さらには、『このお肉は美味しい!』と舌鼓を打って歓んでいる私達も、仏の眼から見れば随喜同業の殺生罪なのである。

魚や鳥や牛は人間に食べられるために生まれてきたのではない。

つまり、すでに私達は生きていくうえで、おびただしい殺生をせずには生きられない深い業を背負っている。

ここに、どうしようもない私の本当の姿が照らし出される。

『美味い!』と云う前に、この道理を知っておかねばならない。

こうした哀れみと無念さの中に己が照らし出され、自ずと手が合わさっていくところに仏の世界が開かれていく。

だから、『いただきます。』も『ごちそうさま。』も、単なる儀礼であってはならないのである。


サンライズ


奈落とは仏教で云う地獄のことである。

語源は古代インドのサンスクリット(梵語)の NARKA(ナラカ)を日本語に音写した仏教用語である。

奈落という言葉には、ありがたいことに底という語尾がつきものだ。

つまり、奈落の底。取りようによっては、地獄にも底があるということである。

ということは、底まで落ちれば、後は這い上がるしかない。

しかも、奈落を造作しているのは己自身なのである。

『自分はこんなんじゃなかった!、もっとできた筈!』などというジレンマが強ければ強いほど奈落の底はより深くなる。


もとより、人間一人で成し得ることなんて無に等しい。

己の座標も見えないまま能書きを垂らす人間ほど躓きは大きい。

一人では何も出来ないのが、『人』という漢字だ。


昔、調子乗りの部下がいて、『大空を舞うのは結構だが、一度は地上に降りて見ろ!』と諌めたとがある。

空を舞うだけでは自分の立ち位置が見えないだろうから、そう言ってやった。

立ち位置を見るというのは、懺悔にも等しくとても辛いもの。

しかし、一旦、地上を見た者は、けたたましく強い。


『そこでよく考えろ!』と云われても『そこ』が『底』に思えてくる。

でも、『底』は遠いところに有るのではなく『すぐそこ』にある。

困った時にこそ、良き伴侶が、良き仲間がいてくれる。

墓穴は他人に頼めばいいのであって、自分で掘る必要はない。


サンライズ

先日、湯上がりで茶の間にいると『なんでも鑑定団』が放映されていた。

すべてがお宝ではなく、ハズレがあるのがこの番組の面白さだ。

鑑定士の、『これは、程度の悪い偽作です。』という表現は何とも言えない。

とりわけ、中島鑑定士の鑑定は偽物品の場合は扱いが粗雑なのですぐに判る。

そして、番組最後の大捕りとなると、原作者のヒストリーから始まる。

視聴者も『大凡、これは本物だろうな。』という感じで気がつく。


それは、明治時代を生きた日本の洋画家の説明だった。

かかる作者は、短命で作品の殆どは洋画だったようだが、唯一、水彩画が含まれていたのだ。

ナレーションが続く中、『これは○○画伯の唯一の水彩画である!』とまで言い切った後、『果たして、鑑定はいかに!』ときた。

先にナレーションで本物だと暴露していながらの問いはないだろう。

云うならば、『果たしてお値段はいくら?』なら、まだ判る。

まあ、娑婆世界のお宝とはこんなものだ。


親鸞聖人のご和讃に、

  弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
  法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり

とある。

阿弥陀さまが『一切の衆生を救いたい。』という願いを発して如来になられたのは、十劫という想像を絶する過去に遡る。

以来、その願いは実際の力となり、無限の”いのち”をもって今日まで止むことなくはたらき続けている。

しかも、そのはたらきは、どんな暗黒の世界であろうと普く光を照らし尽くしていくように、煩悩の闇に惑わされて真実の智慧を持たない私たちを一人残さず真実に目覚めさせてくださる。


やはり、本当のお宝は値段が上がったり下がったりはしないのである。


サンライズ


昨夕、お風呂の栓をひねって梵鐘を撞くべく鐘楼に向かった。

鰯雲がたなびき、西方より夕日が差し込んで茜色に染まっている。

爽やかな秋の落日だ。

山門を閉めて庫裏に戻った。

暫くして、お風呂を確認すると何と湯が溜まっていないではないか。

よく見ると栓が外れていた。

栓がはずれているのに湯が溜まるわけがない。


ふと、仏法が目に浮かんだ。

聞く耳持たない人に、いくらありがたいお話しも通じないのと同じである。

私に命を授けてくださった『ご先祖と同じ道を歩みたい。』

『仏の国に往きて生まれたい。』

これらは人間でいうところの栓に等しい。

これが無ければ、だだ漏れの風呂桶と同じだ。

そして、お風呂の栓を失わないよう、しっかりと繋がれている鎖こそが仏法なのである。


サンライズ


先週の日曜日、隣寺の天台真盛宗(ご本山:西教寺)末寺の大遠忌法要に参勤させていただいた。

天台と云えば、常行三昧(じょうぎょうざんまい)という勤式の本家本元である。

真宗もそのなごりを継承しているが、五線譜で声明(しょうみょう)をお唱えするのは真宗では佛光寺派だけだ。

『ゆり』、『まくり』など極端に難しい絶対音階が必要となる。

聞いていると心に浸みわたり、ひとりでにお念仏の世界に誘われていく。

そして、お堂を回りながら漢音小経が始まった。

通常では、仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)だが、漢読みでは(フセアビダケイ)だ。

これも佛光寺派ではお唱えする。

そして、如是我聞・一時佛在・舎衛国・祇樹給孤独圓(ジョシガブン・イッシフサイ・シャエケキ・キシュキッコトクエン)と続く。

ウッカリ舌を噛んでしまいそうだ。

後に天台僧侶から、『佛光寺派もやるんですか?』と驚いておられた。

興味があったので最後のお説教も拝聴させていただいた。

あの天台と云えば、真言と同じく日本仏教の源流だ。

法然上人も親鸞聖人も修行なさった。

アレだけ格式高く、自力のお話しかと思っていたが、蓋を開ければお念仏のお話しだった。

浄土往生を遂げたくば『念仏申す身となれ!』と仰る。

改めて、天台真盛宗真盛上人の御教えを学ばせていただいた次第である。


サンライズ