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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


最近、会館などで行われる葬儀式ではお念仏の声が聞こえないことが多い。

儀式においては、『静かにしていないといけない。』という先入観があるのだろうか。

また、他宗派の方もお参りされているため、どのタイミングで勤行が終わったのかが判らないのかな。

ところが、自宅での法事などでは、しっかりと声を出して念仏しておられる。

そんなわけで、愚僧は勤行の最後には、『合掌!!』と号令を掛けることにしている。

僧侶が合図することでお念仏を促せるからだ。

かつて、守山市に勤務していた頃、終戦記念日の”市民平和のつどい”において、一分間の黙祷が行われた。

愚僧は、黙祷の号令と同時に合掌し、心の中でお念仏を称えていた。

ところが、後で地元新聞社の写真を見ると愚僧だけが合掌姿だった。

殆どの人は。『黙祷』と号令が掛かると、”目を瞑って頭を下げる姿”を想像するのだろう。

まあ、この場面は仏事ではなかったが、『恥すかしいこと』だとはまったく思っていない。

自ずと手が合わさってしまっただけのことだ。

当家が戦争遺族ということも心中にあったのかも知れない。

でも、自然に手が合わさることに不思議はない。

お念仏はところ構わず、当人がいただいた姿そのものなのである。

実のところ、号令が有ろうが無かろうが、自然体でありたいものである。

ガッショウ!!


サンライズ

 


本日は、母の訪問看護の日だ。

訪問看護といっても、お話し相手みたいなものだ。

まず、はじめに『今日は、何月何日?』と聞かれるらしい。

そんなことから、事前に愚僧に日付を訪ねてくる。

次に『紀元は?』と聞かれるらしい。

いつも、紀元を問われると『機嫌は悪い!!』と返しているとのことだ。

『老化』というのも『廊下』に聞こえるらしい。

そして、『おしり(お通事)の具合はどうですか?』という問いにも、『おしりは二つに割れておます。』と返したいとのことだ。

なかなかの兵(つわもの)である。

さて、今日はどんな会話になるものやら。


サンライズ

昨日は、米原市の県立文化産業会館にて『真宗のつどい』が開催された。

愚僧も主催者の一員として出席させていただいた。


医学博士で医療法人『みやざきホスピタル』を運営されている宮崎幸枝先生(小児・内科医)をお迎えし、記念講演をいただいた。

なかなかユニークな内容のお話しだった。

仏法を聴聞するに最大の壁は『人間の常識』とのことである。

常識を捨てるところに弥陀の本願が待っていてくださる。

はじめに、頭の中から常識を投げ捨てるとして、全員が頭を押さえ、脳みそを捨てる振りから始まった。

ありのまま、あるがままを受け入れていく。

ところが、誰しも常識が邪魔をするのである。

『明日から』とか、『いつかは』では間に合わない。

そして、誰でも死ねばお浄土に往けるものではない。

もし、そうだとすればキリストもイスラム信者もすべてお浄土に往けることになる。

それは、南無阿弥陀仏を称え、如来より賜る信心ある人のみなのだ。


表現は異なるが、愚僧も同じいただき方をしている。

いい勉強をさせていただいたことである。


サンライズ

昨日、同宗連の研修を受けた。

当院にも寺院創建以来の過去帳が現存している。

しかし、初めのページあたりは俗名に姓がない。

もっと凄いのは女性と子供の名前は見あたらない。

○○の嫁とか○○の子としか記されていないのである。

中には絶えた家も数々あるようだ。

これらは、明治以前の記録である。

○○郎、○○左衛門、○○右衛門、○○兵衛に始まり、魚屋、うどん屋、桶屋、下駄屋やなど様々である。

現在もその屋号は残っているが、今はお名前を呼ぶときには現世帯主の名を呼ぶことに徹している。

勿論、家系のルーツを辿るには家紋を見れば大凡の見当がつく。

こんなものは第三者に閲覧させるものではない。


人権擁護委員に20余年従事してきた先代から殊に厳しく教わってきた。

法務以外に活用の手立てはないのである。

ところが、当主から『ご先祖を知りたい』とか『家系を調べたい』などの要望は絶えないとのこと。

この場合は、類推できる部分だけを抜き書きして当主に提示すればよいとのこと。

間違っても過去帳を閲覧させてはならないのである。

また、『歴史探訪の古文書として閲覧させて欲しい』というマスコミや行政学芸員からの要望もあるとのことだ。

僧侶の”親切心が社会差別を加担する”羽目に陥ってしまう可能性は大である。

ここは、まさしく要注意だ。

コピーを発行したり、写真撮影など厳禁である。

つまり、過去帳は個人情報そのものなのだ。

この4月から地元の人権擁護委員を担おうとする愚僧にとって、改めていい勉強の機会を与えていただ。


サンライズ

本日は、同宗連の全体研修会に出席する。

タイトルは『あなたの親切心が社会的差別に加担しないために(寺院過去帳等の扱いを中心に)』である。

演者は、曹洞宗人権擁護推進本部の工藤講師だ。

同宗連とは、『同和問題に取り組む滋賀県宗教教団連帯会議』の略称である。


古来より、寺院と同和問題は無縁では無い。

法戒名の命名や過去帳の閲覧など、注意を払うべき内容を孕んでいる。

自分では意識しなくとも、相手に差別意識を持たれたたのなら、その瞬間、差別行為が生じている。

中でも、知らず知らずのうちにという『無知』が最も恐ろしい。

『無知』は同じ過ちを何度も繰り返すからである。


当派は真宗教団連合という組織において関与しており、会議の副議長でもある。

本日は、教務所長の代理で出席させていただくのだが、しっかりと研鑽してまいりたい。


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庫裏の離れの改修工事が完了した。

玄関は一つだが、三世帯が生活できる環境に改修したものである。

昔から○○一族というのをよく聞くが、昔のセオリーを今の若者に押しつけることは難しい。

夫婦でさえも一心同体にあらず、よくよく考察すれば二身異体なのである。

年を増すにつれて、現在、このことをしみじみと味わわせていただいている。

今、流行のプライバシーの確保というやつかな。

しかし、次世代にお寺がどういうものかを知らしめるためには完全に別世帯というわけにはいかない。

従って、玄関は一つなのである。

その方か、防犯上も優れている。

また、今回の改修の特徴は、衣装部屋を一元整備したことだ。

先代までは、蔵・庫裏・各部屋に夏冬用など、バラバラに装束を仕舞っていた。

これでは高価な衣装も管理が行き届かない。

まあ、寺院運営を一元的に踏襲するには難しいものがあるな。


サンライズ


先日、近々に開催予定の同級会のご案内をいただいた。

蓋を開ければ、一招待者ではなく『乾杯の発声をせよ!』とのことだ。

乾杯の依頼を受けた人によっては、何を勘違いしてか、『何か話さねば!』と長々とお話しをする人がいる。

愚僧的にはこれは禁物だ。

つまり、既に主催者の開会挨拶も終わっているにも関わらず”こことばかり”に長々とお話しする馬鹿がいる。

愚僧はそれが許せない。

愚僧が将来において名声を名乗ることもない。

先ずは、ご指名いただいたことに感謝し、『乾杯を発声するだけ!』に留めたい。


しかし、後の出番もあるとのこと。

中主小学校の校歌伴奏をやって欲しいとのことだ。

やっと、ギブソンJ45の出番だ。

今後、イントロと音階キー(和音)を拾う必要がある。

これは光栄なことと感謝している。


愚僧は中主小学校の校歌が大好きだ。

例えば、『甍(いらか)輝く小学校』というフレーズ。

愚僧が通う当時の校舎は瓦葺きだった。

さらに、『兵主(つわものぬし)や錦織(にしきお)る。』というところだ。

もともと、兵主大社は戦いの神さんだったと聞いているが、その”つわものどもが錦を織る”というのは、兵士達が木部の真宗木辺派本山である錦織寺に心を寄せたということだろう。

まあ、これは愚僧の勝手な解釈だがな。

そして、『鳰の浦波打ち寄せて』というところだ。

かいつぶりがアヤメ浜に漂う光景が目に浮かんでくる。

まあ、そんなところだが、頼まれた事だけをこなそうと心がけている。


サンライズ


先日の土日、地元木部派寺院のご布教に寄せていただいた。

今回で二回目だ。

南無阿弥陀仏のルーツと意味に触れ、『慚愧のこころ』という講題でお話させていただいた。

終わってからお二人の方からご質問をいただいた。

ありがたいことである。

その一人は世話方さんで小学校の同級生だった。

50年余り経っても面影は残っており、実にいい顔になっておられた。

最後まで、どなたも熱心に聞いてくださった。


サンライズ


文字通り、限りない量のことを無量という。

例えば、南無阿弥陀佛の『アミダ』という言葉を察するに、大概の人は”アミダクジ”を思い浮かべるだろう。

実は、サンスクリット語での『ア』とは否定を意味する。

次に『ミダ(ミタ)』とは量のことである。

一体、どんな量なのか。

しかし、量を否定するのであるから比べようもない。

つい、私たちはその実態を比較しようとする行動にかられ、身近に比較できる様々な値を思い浮かべてしまう。

量り知れないというものは、どこまでいっても量れないのだ。

つまり、量ること自体に無理がある。

しかも、この無量なるはたらきに差別はない。

あの、四制階級で有名な古代インドにおいて、その思想が釈尊によって解明されたのである。

個々に輝くいのちは、何ものにも喩えようがない。

人間の思惟を超えた限りない慈悲と智慧のはたらきが阿弥陀仏なのである。


サンライズ


未だに焼香の後でおしぼりが配られている。

”おしぼり”は汚れた手をきれいに拭きとるもの。

では、焼香をすると手が汚れるのだろうか?

愚僧は焼香の後のおしぼりはいただかない。

受け取るなら、焼香の前だ。

こうした、根も葉もない汚れた邪心を拭うためにも焼香する前に必要だろうな。


また、司会者が最後に『お別れのお花を!』と誘う。

身内における最後のお別れは、すでに命終の時に終わっている筈である。

お花は他人さまでも供えられる。

湯灌できなくても、『お顔を拭かせていただいたのか?』

駆け引きなく育ててくださった皺だらけの足や手を『拭かせてもらったのか?』

身内しかできない『最後の恩返しをさせていただいたのか?』ということである。

そもそも、恩返しなんてものは生前のうちにお返しするものだ。

人の死は、”悲しくて辛いこと”だが、決して”悪いこと、汚いこと”ではない。

身内なればこそ、最後に何ができるかである。

葬儀式は点で捉えてはならない。

あくまで日常生活の延長線上で捉えるべきである。


サンライズ