ひのきょうのブログ -17ページ目

ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


父の蔵書を整理しているが、なかなか整理しきれない状況である。

そこで、分散して仕舞われていた蔵書を分類してみることにした。

佛教・真宗蔵書、教育蔵書、書道蔵書などに大別できる。

佛教・真宗蔵書だけでも専門的な教学関係からやさしい法話集まで広範囲に及ぶ。

法話集だけで100冊近く存在する。

そんな訳で、この度、やさしい法話集をご門徒さんに一般開放するため、本堂の一角に図書コーナーを新設することにした。

少しでも聞法活動の一助となれば幸いである。


サンライズ

『勇貴君へ! とうとう、最後のお弁当になってしまいました。
数々のお弁当食べてくれてありがとう。
お弁当の事でいろいろなお話もできました。
次、いつ勇貴のためにお弁当を作れるかわからないので、このお弁当味わって食べて ください。
長い間の高校生活楽しかったね。
残り少ない時間を過ごしてね。
ありがとう。 母より』

文中の、『食べてくれてありがとう。』の表現が何とも言えないな。

この表現はなかなか言えるものではない。

そして、『味わって食べてください。』も素晴らしい。

三年間、早起きしてお弁当を作ってこられたお母さんからの優しい心が隠ったメッセージだ。

最後は『ありがとう。』と感謝の言葉で締めくくられている。

お母さんは、当日、帰ってきて何の反応もない息子に、『18才の息子なんて、こんなものかな?。』とがっかりしたようだ。

しかし、手紙の裏側には『お母さんへ!』という返信が入っていたのだ。

それを読んだお母さんは、涙が止まらなくて台所で声を出して泣かれたとのこと。

返信には、『3年間、お弁当ありがとう。』に始まり、『今日が高校最後の弁当だけど、また、いつか作ってください。本当に3年間ありがとう。』と締めくくられていた。


いつもは、肉系のおかずが1種類なのに、この日は、唐揚げとハンバーグの2種類が入っていたそうだ。

こんな慎ましいやりとりはどこの家庭でもあると思うが、母の『作ってやった。』、息子の『してくれて当たり前』という感情が微塵も窺えない。

勇貴君は、4月から就職のため、東京で1人暮らしするとのこと。

素晴らしい家族の絆に感動させていただいた。


サンライズ


 

先週はすっかり更新をサボタージュしてしまった。

読者の皆さんには大変申し訳なく、心よりお詫び申しあげたい。

色々とあったが、その訳はよそう。


んで、近寺の定例法話会は成功裏に始まった。

9月度の願正会までお願いしたいとのことである。

ひもじい愚僧にとってはとてもありがたいことだ。

来週は、手弁当でも持参して花見といきたいところだ。

長らく外に出ていない母も連れて行ってやりたい。

また、明日からブログを再開したいのでよろしく!!


サンライズ

 


本日の朝刊によると、地元の市民病院建設計画が可決したそうである。

市民にメリットだけではなく、行く末のデメリットもしっかりと論議して欲しかったのだが、ここに及んでは仕方がない。

私たちが選んだ議員さん方の賛意によってお決めになったことなのでそれはそれでよかろう。

当然のことながら、市民は自分達に都合の良い医療を求めてくることになるだろう。

そこで、いちいち市民個々の都合を聞いているようでは医療は成り立たない。

愚僧も、個人的には市民に都合の良い病院があった方が良いというのは持論である。、


そもそも、疾患というのは人間の個々の都合で発症するものではなく、無関係なのは言うまでもない。

開設後、市長さんや議員さん方が本来の責務以外で奔走することにならなければいいのだが・・・。

『私の後援会の会長さんがあの医者は駄目と言っている、何とかしろ。』

『保険金が下りるまでもう少し入院させてやってくれ。』

『あの患者は私の親戚である。』

などと口を挟むようになる可能性は大だ。


『我々の税金でこさえた市民病院だから』という観念は市民には根強いものがある。

本来、医療とは患者と医師との信頼関係で成り立っている。

こんなことは誰が考えても判るお話だが、判らんバカは後を絶たない。

そこに、何の根拠も権限もない第三者が介在したところで医療の質は何も変わるものではなく、むしろ逆に働く。

もしも、赤字が出るなら利用しない市民の責任なのだ。

市民が個々の都合で病院を評価しないことを望んでいる。

まあ、こんなふうに個々に都合の良い病院に仕上げないことを願うのみである。


サンライズ

この度、近くの寺院から定期講話の依頼をいただいた。

昨年、願生会法要の布教させていただいた真宗大谷派のお寺だ。

平素から、聞法の機会がないため、定期的に聞法会を開きたいとのこと。


そこで、『難しいお話は一切いらず、質疑ありにしてほしい。』とのことである。

こうした手法を用いてご縁を繋いでいこうとする試みには敬服すべきものがある。


仏法は死んでからでは間に合わない。

既に、浄土往生された諸仏方に仏法は必要ない。

むしろ、諸仏方は現世を生きる者たちを導く存在とならねばなるまい。


『難しいのは駄目!』と釘を指されているので切り口が悩ましい。

まあ、『ブッポウは人を生かす道、テッポウは人を殺す武器。』あたりから入ろうかな。


サンライズ

消息(しょうそく)という漢字から想像するに、『息が絶えた。』とか、『死んでしまった人の言葉。』などのように理解する人が殆どだろう。

しかし、その意味はいくつかあるだが、仏教的にはもっと深い。

古来より、息が消える様は『陽(生きている)』の気が消えることなのだが、「息」は陽気の生じている様そのものであった。

これは、陰陽の関係が潜在している。

つまり、人や物事の、その時々のありさまや動静や状況を『生の言葉で伝える。』ということなのだ。

毎年、この時期にご本山の実情を伝えるために使僧が来られる。

ご本山の状況とご門主のご消息を末寺に伝えるためだ。

そんなわけで、昨日、御本山からの使僧が差し向けられた。

現代受けする良いお話しだった。

何で人間だけが苦を感じるのだろう。

人間以外の動物は苦に悩むことなく生涯を全うしていく。

これは、すばらしいこととしか言い様がない。

あまり考え過ぎずに、あるがままを生きることを学ばせていただいた。

押さえ所は、『どうして、今ここがあるのか?』ということだけである。

つまり、仏教の教えを難しくしているのは我々僧侶なのかも知れないな。

物理的にミカンのすべてを知らなくともミカンはいただける。

そんなものでありたいな。


サンライズ

昨日も、書院から本堂余間の裏側あたりにかけて、整理がてら掃除を行った。

約40年間、本堂の後堂廊下には父の収蔵ロッカーが置かれたままだったが、後ろから埃まみれの中から二つの和机と硯箱が沢山出てきた。

机には落書きがあり、、子供が書いたような馬(?)の絵が落書きされている。

きっと、叱られたに違いない。

少し壊れているが、必ず復元したい。

でも、細工は竹釘が使用されているので明治以前のものだろう。

そして、硯箱には明治、大正時代のご先祖のお名前が記されている。

みんな亡くなった方々のお名前ばかりだ。

しかし、不思議と温かく近親感が漂う。


掃除させてもらってよかった。

促してくれたのは亡き父である。

掃除は、他人ためのものではなく、自身のためのものなのである。


サンライズ


昨日は、鐘楼堂修復工事にかかる臨時総会が開かれた。

いくつかご質問をいただいたが、概ね原案通りに可決された。

弱小門徒なので一軒あたりのご負担も相当な額となる。

よくぞ、ご決断いただいたものだ。

常に念仏相続を口にしてきた先代のおかげと感謝している。

来年は、安心して近所の子供達にも撞かせてあげられそうだ。



サンライズ

 

 


長いトンネル抜け出たとき、何かホットした気持ちになることがある。
誰でも、闇はイヤなものだ。

とは言っても、物理的に目で感じ得た明暗の世界である。

古来より、人々は常に天高い世界に憧れてきた。

つまり、雲の下でしか生きられない我が身を見つめたのだろう。

勿論、雲の上には、また幾層にも雲があるが、その上の上にはお日さまが必ずある。

雲を人間が抱える煩悩に喩えるとわかりやすい。

正信偈の中に、『雲霧之下明無闇』という一句がある。

雲霧の下、闇無く明らかなり”と直訳しよう。

その訳は数行前に顕かにされている。

『常覆真実信心天』というところだ。

常に真実信心に抱かれれば、いくら雲霧に覆われていても天なのである。

人間の煩悩が消え去ることはない。

まあ、煩悩が煩悩でなくなるということかな。


サンライズ

 


『日新堂』とは、古来より呼ばれてきた佛眼寺の別称である 。

古文書には『日新閣』という表示も出てくる。

昔から『日新堂』とか『日新閣』と呼ばれてきた。

話しは飛ぶが、当寺のご門徒さんには『新庄』という姓が圧倒的に多い。

隣町の守山市には『新庄』という町があるが、そこには『新庄』を名乗るお家は存在しない。

また、当家の姓は『杲』であり、音読みでは『コウ』と読み、意味は『明るい、明か』である。

これを、『ひので』と訓読みしているのは全国で我が家だけである。

県内に三軒のみ、実在するがすべて親戚だ。

さらに、余計な話しだが、『杲』という漢字の『日』が『木』の中に入ると『東(音読:トウ)』と読み、意味は『ひがし』である。

また、逆に『日』が『木』の下に入ると『杳(音読:ヨウ)』と読み、意味は『暗い』である。

『日』の位置によって、それぞれ『コウ、トウ、ヨウ』とゴロ発音がに変化していく。

『日の出』という語句には、本来、『太陽が昇る。』、『お日さまの光に照らされる。』という意味がある。

愚僧の勝手な解釈だが、『日新堂』という呼称を考察するに、日の出の『日』と、新庄の『新』との関係は、まんざら無縁ではないように思う。

しかし、その由縁は何もない。

古来において、こんなところあたりから『日新堂』という呼称が生まれたのではないかと類推するしかない。

因みに、群馬県には杲(ひので)小学校という学校が実在していた。

しかし、これも昭和の末期に少子化の影響で廃校となったようだ。

まあ、『杲』という字を探ってみるのも面白いが、日新堂は未だにわからない。

サンライズ