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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


同宗連とは、『同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議』の略称である。

部落解放と反差別連帯を目的に活動している。

それは、佛教だけではなく、神社庁、基督教、金光教、天理教なども皆同じ傘下だ。

愚僧は、この時勢に『平等は当たり前のこと』として研修に参加させていただいた。


一昨日、兵庫県は姫路市花田町高木で仕事をされている『なめし革職人』のふる里を訪ねさせてもらった。

勿論、革の加工や工程は初めて見る光景であり、愚僧もその工程をみる限り商品が高価なのがよく理解できた。


そして、午後は姫路人権ネットワークの金田講師から被差別部落の現状と問題を教わることとなった。

それは、唐突にも、『あんた等、何でここに視察にきやはったん?』から始まった。

『加工や工程を視察して一定の知識は得られたやろうけど、それでどうなん。』だった。

つまり、長い歴史の過程において生きるために親から子、子から孫へと技術を伝承しつつ、家族諸ともに一生懸命に働いて来られたのである。

その志は、鉄工所や八百屋もそしてお寺も同じだったと思う。


つまり、一職人として普通に生きてこられただけの話しだ。

にも関わらず、仕事内容を見てかどうかはよく解らないが、その地区の人々が差別され続けてきたのである。

つまり、同情とか理解というレベルではなく、『だったら次にどうするの?』というアクションが求められているのである。

まさに、こうした危機に瀕していない奴等は何も判らんのだろう。

その地域では、昨年も差別事件が起こり、その内容を語るのも腹立たしいと講師は嘆いていた。

こんな事件の繰り返しに若者達はどんどん町を出て行くとのこと。

こうした淘汰の中で人間差別が無くなればありがたいと思う一方で、『地域の歴史や地場産業が消え行くことが残念なのだ』と。

つまり、経営不振で事業が消えゆくのは止むを得ないとしても、謂われ無き差別を背景に地場産業が消えゆくことが許せないとのこと。

今や、日本はおろか世界に誇れる姫路の『なめし革技術』を後継する若者がいなくなりつつあるのだ。

講演は、ほんの氷山の一角だったが、地域の人権擁護委員として貴重な学びを得させてもらった。

まだまだ未熟だけれど、回向文にあるように『平等施一切を説き続けていきたい。』と確信させていただいた。

NTSの皆さん、お忙しい中、お付き合いいただいてありがとうございました。


サンライズ

 


昔、ある大きな事業の責任者を担わせていただいた。

遠い昔の話しだ。

まず、その事業は解体工事から始まった。

連日、脅迫まがいの不当要求の電話がかかり、相手側も必至なのが創造できた。

壮絶なプロパガンダ戦となっていった。

最初は丁重に会話していても、途中から意に沿わないと豹変する業者もいた。

そうなればなるほど『上等だ!』と開き直っていった。

『発注するのは我が社』ということだ。

基本理念だけは最後まで失わなかった。

トップから頼まれたことは一度もない。

意地でも社を護りたい拘りだけだった。

こうした状況は、建設事業に限ることではない。

何気ない会話の中の一言ひとことでさえも責任は伴うのである。

翻せば、社長も管理職も平職員もすべて社員なのだ。

組織拡張に反して結束力は希薄となり勝ちだが、『自身を失うことなかれ。』である。


もう、あんな場面には二度と遭遇したくはない。


しかし、そのおかげで成長させていただいたのは事実である。

今、考えてみるに『感謝』しかないな。


サンライズ

 


お釈迦様の説法の殆どが待機説法と言われている。

つまり、待機とはマンツーマンのこと。

大講堂に信者を集め、高壇から腕を振り上げて説法するやり方とはまるで異なる。

こうした説法は、一人ひとりの悩みに応じた表現を用いてで応えていくことだ。

丁度、医師が患者さんに処方箋を発行するのによく似ている。

しかし、個々の質問が異なるが故に説法も微妙に異なる可能性が生じてくる。

従って、よく似た経典が数多く出典しているのも無理は無い。

しかし、最近の世相を観察するに、マイクを離さず己の考えだけを押しつけていくやり方が常道となってしまっている。

最早、説法ではなく洗脳である。

洗脳は相手を究極のどん底に貶めるところから始まる。

相手の心を掴むどころか相手の心はどうでも良いのだ。

究極は『言った。言わなかった。』とか、『聞いた。聞いていない。』といったピント外れの論争に発展していく。

そして、最後は『お金返せ!』ということに成りかねない。

患者さんの訴えも聞かずに、一方的に処方箋を発行する危険極まりない医師と同じである。

説法というのは話すところから始まるのではなく、相手の心の内を聞かせていただくところからはじまるのである。

説法の奥底には深い意味が込められている。


サンライズ

 

坊守が仕事の日の夕食は、きまって愚僧が準備する。

母はお漬け物が大好きなのだが、それだけでは栄養が偏ってしまう。

茹でものや煮炊きは軟らかさを考えて二通りを作成する。

しかし、当人が食べたいものが一番だ。


いつも通り『今日の夕飯は何が食べたい?』と聞くと、いつも通りに『何でもええよ。』と返えされる。

この『何でもええ』というものほど難しいものはない。

脳の活性を考えて、『トンカツとシチューでどう?』と、わざと好まなさそうなメニューを挙げてみる。

すると、『それはかなん。漬け物だけあったらええ。』とまたしても漬け物に戻ってしまう。

どうしたらいいのかな。


むしろ、愚僧の脳が味噌漬け状態と化している。


サンライズ

 


先日、4歳と2歳の孫の世話をさせていただいた。

娘が診察だったのでその時間帯を頼まれたのだ。

世話と言っても、危険が及ばないよう見ているだけ。

たかが5時間程度でかなり疲れてしまった。

絵本を読み聞かそうとすると『おもちゃで遊ぼう』という。

おもちゃで遊ぼうとすると『公園に行こう』と言う。

次から次へと愚僧のペースは見事に壊されていく。

そして、最後の最後に『お母さーん。』という呼び声に変わった。

それは、私達の御親の名でもある。

気がつけば、手に負えない孫達を見ている愚僧が『南無阿弥陀仏』をお称えしていた。

孫達から仏の御名を呼ばせていただいた。

ああ、何とかたじけないことか。

南無阿弥陀仏。


サンライズ

長年、本堂のお磨き(仏具磨き)は尼講(あまこう)さん方のご奉仕だった。

現在ではクエン酸液に浸すだけだが、当時はペースト状の真鍮磨きで手が真っ黒になるまで磨いてくださった。

まさに一日仕事だった。

現在、尼講という名称は佛教婦人会に変わり、名簿は連ねるものの、実際に活動できる方々は半減してしまった。

長寿をいただいた反面、寝たきりや施設入所の方が多くなってしまったのである。

佛光寺の象徴であるご本尊の九条紋(下り藤)はとても重く、高齢者でも一人では厳しい。

そんなわけで今年から男性の協力を得ることとなった。

結構、若い方が出てくださり、お磨きのほかに登高座の準備までが午前中で終わってしまった。

後は報恩講法要をお待ち受けするだけだ。

ありがたいことである。


サンライズ

昨日、毎日放送の番組を見ていたところ、ある寺院の映像が流れてきた。

本堂が壊滅状態で朽ち果てている。

瓦礫の下には国宝級の仏像が眠っているとのこと。

兼務住職とおぼしき方が経過と現状を説明しておられた。

寺院経営もさることながら、『町の過疎化』の影響が大きいとのことである。

至るべくして至った因果は想像の域から離れないが、残念なこととしか言い様がない。


ところで、全国寺院数の実態としては、現在、約75,000ヶ寺あり、数ではコンビニの約40,000店舗を遥かに上回っている。

うち、最も寺院数の多い県は愛知県(4,605ヶ寺)、次に大阪府、兵庫県と続き、我が滋賀県は4番目(3,215ヶ寺)だ。

しかし、人口10万人当たりの寺院数は、何と滋賀県が228寺院で第1位なのである。


一方、ネット仏事(葬式、法事、納骨など)がお目見えする昨今、決して、他寺事ではない。

愚僧も、のんきにブログを発信している沙汰ではないな。


サンライス


先日、終活番組をやっていた。

主人公の病名はガンだ。

ガンと聞けば、人生が終わったようにも聞こえるが、そこからの生還もある。

ステージによっては死が待ち受けている。

そして、臨床データに基づき医師から『宣告』がおこなわれる。

宣告という言葉を聞くと何とも無情な気がする。

恐怖に襲われつつも、事実にほど近い表現なのである。

しかし、考えようによってはあとどれくらい生きられるということが解る。

勿論、臨床データであるが故にその通りになるとは限らない。

他に、脳出血、脳卒中、心臓疾患など生命を脅かす病名は様々だが、中途半端な病態のまま苦しむのと比較すればどちらがどうだとも言い切れないものがある。

中村仁一先生の著書に『どうせ死ぬなら医療と関わるな!』といういのがある。

さらに、『死ぬならガンに限る。しかも、治療せずに!』だ。

これに従うにはそこそこの勇気が必要だが、見過ごせないものがある。

今日まで愚僧も多くの臨床末期の患者さんと接してきた。

最後まで最先端医療を望んだ患者さん、ハナから自然の成り行きに任せた患者さんなど様々だったが、平均して言えるのは積極医療を望まなかった患者さんの末期はとても安らかだった。

宣告によって、命終が見えるというのも満更ではなさそうだ。


サンライズ


昨日はブログを書く暇がなかっった。

ただの言い訳に過ぎない。

先日のお葬式の装束の片付けをしていて、気がつけばお昼になっていた。

一番難しいのは袴の仕舞い方だ。

しっかりと、習わないまま前職が命終してしまった。

だから、基本がよく解らない。

このお年になって恥ずかしいことだが、今は直ぐに着用できることだけを気に掛けて仕舞っている。

袴の筋(折れ目)・帯のたたみ方れだけは大切だ。

だから、いつでも着られるように仕舞った。

そして、午後には珍客が訪れてきた。

話しが弾むうちに気がつけば、大凡、夕方になっていた。

結局のところ予定していたことの半分も遂行できなかった。

でも、損失したような気にはならなかった。

考えていたとおりにならなかったけれど、それはそれで無駄ではなかったといううことだろう。

まあ、こんな日があってもよかろう。


サンライズ


本日、遠縁のお葬式をいただいた。

今までどこの寺院にも所属されておられず、結局、愚僧に出番が回ってきた。

しかし、自宅には小さなお仏壇が安置されているとのこと。

お仏壇の大小に関わらず、愚僧的にはそれは当たり前のことと認識しているが、仏さんも出ていないのに今時にしては関心させられるものがある。

当主のお心もさることながら、分家なさった当時の本家がしっかりされていたのだろう。

しかし、その本家も今では新興宗教に転宗されたとのこと。

昨晩の通夜法話では、『変わる心、変わらぬお念仏』を踏まえたお話をさせていただいた。

さあ、今日は本葬だ。

ぬかりなく終日対応していく所存である。


サンライズ