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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


ある信者さんからご質問をいただいた。

その方のお母さんは彼が中学校の頃に亡くなられ、父は後に再婚された。

多感な時期に父一人では面倒を見切れなかったのだろう。

当然の事ながら実母への想いが強く、後妻さんとはうまくいかなかったようである。

その後、継母を実家に残し独立されたが、後妻さんに子供がいなかったので継母の生計も気にしておられた。

そして、父も無くなり、程なく継母も亡くなられた。

しかし、当家の墓に『継母の遺骨は入れたくない。』という納骨の相談だった。

今更、好き嫌いは消しようがない。

愚僧はそのお家の一部始終を知る由もないので一般的なお話をさせていただいた。

佛教の教えに『怨親平等』というのがある。

『怨親』とは敵対する者と、親しい者を意味する。

あの、天下分け目といわれた関ヶ原の合戦も、後に至っては、敵味方に関係なく忠魂碑が建立されている。

当時は、怨恨極まりなくとも戦い(=命終)が終わればすべて平等なのである。

『 敵を憎まず、味方を贔屓(ひいき)せず、両者を平等に扱う。』ということである。

つまり、佛教では敵味方を区別することなく平等に慈しみ、極楽往生を願う教えが存在する。

彼に怨恨があったかどうかは別にして、わだかまりがあったのは事実であろう。

かといって、別に墓石を建てるのも理にかなわず、お父さんの再婚も何かのご縁として受け入れていくしかないということを諭させていただいた。

大なり小なり、そのおかげて『彼も育まれた。』という了解そのものが合掌なのである。

きっと、後妻さんも喜んでいるに違いないことを申し添えた次第である。


サンライズ


昨日は本山での会議のため京都行きだった。

西大津バイパスを通って約50分だ。

北は北海道から南は九州南部までの組長が一同に会するが、歩いて1分以内という方もおられる。

まあ、車で50分はありがたい方だ。

さて、会議では最新の議題について縷々説明がなされた。

折角、遠方より来たので何かを話さないと気が済まない人、答えが解っていても敢えて質問する人など、質問を聞いていると結構面白い。

また、応える側もそれ以上の強者で、少しずつ的を外して応えなさる振りもなかなか面白い。

つまり、組長会はガチンコ会議ではないのである。


過去には、こんな大人の会合を経験したことがある。

昔、ある要人方ご列席の会合に呼び出され、県の担当者と二人で出頭し、質問攻めを喰らったことがある。

ひとつ一つが核心に触れる追求質問で、『今、明かす時期ではない。』という問いばかりだったので、とにかく最後まで惚けまくることにした。

『ちゃんと答えなさい!』とか、『答えになっていない!』などと叱責されたが、県の担当者も私も答えにならない答弁を何度も繰り返した。

途中で笑えそうになったが、しっかりと舌を噛みつつ真剣なまなざしだけは崩さなかった。

常に、相手側は都合の良い答えを導き出そうとするが、こちらも都合良く応えている。

つまり、答えを出さない応えである。

そして、最後は『もういい、返れ!』と怒鳴られて部屋を後にしたのを想い出す。

部屋を出てお互いに『あんたもよくやるね!』と褒め称えた次第である。


サンライズ


サルビアは鮮やかな赤色を呈し、幹の頂点に重なって花が咲く。

いくつもの花が互いに重なり、支え合って咲くことから、滋賀県ではサルビアを人権の花に指定している。

そんなことから、昨日は地元小学校を訪問させていただいた。

子供達が春に種を蒔いてくれたのだが、今年は不作だったとのこと。

でも、毎日当番を決め、子供達が欠かすことなく人権の花の水やりをしていてくれたおかげで、そこそこ芽を吹いているのがありがたい。

校庭に出て、子供達と一緒に小さな苗をひとつひとつポットに小分けした。

もう少し苗がしっかりしてくれば、再度、プランターに植え替えて完成だ、

熱心な子供の行動に自然と会話が生まれてくる。

つい、『ここまで熱心だったかなー?』と幼少の頃を想い出してしまった。

子供達の笑顔は、まさに青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光を放ち、それぞれが微妙香潔であった。

運動会の頃が楽しみだな。


サンライズ

古来より、『目は口ほどにものを言う。』というが、少林寺を止めて25~6年が経過しようとしている。

道院では大した力にもなれなかったが、沢山の後輩拳士が立派に育っていった。

当時、抜き技の練習を思い出すに、抜けなくて必至になって腕を抜こうとする拳士がいた。

結局、技ではなく力で抜こうとしていた。

これでは力の強い者が勝つ。

つまり、腕より肘、肘より肩、肩より身体、そして運歩法と体捌きですべてが決まってしまう。

ところが、相手の片方の腕は空いている。

いつ、突きが飛んでくるかわからない。

まあ、言われた通りにやるのも良いが、片方の拳はいつも空いていることを常に知っておく必要がある。

結局、教範どおりにやろうとするからそういうことになる。

どんな技を掛けようとも、掛けられようとも相手の目を見ていなければ命取りとなる。

乱捕り(グローブを付けての実践練習)も演武(技の披露)も同じだ。

いかに技が早かろうが、切れ味が良かろうが、互いが相手の目を見ていなければ単なる体操になってしまう。

しかし、目をみていれば何が起こるかが読める。

練習も本番も常に相手の目を見ていなければ、気迫も欠けてしまうのである。


サンライズ


人と一人との繋がりは深く、また重い。

加えて、家族同士の絆もまた深い。

さて、人か、家族か、ということ難しいものがあるが、どちらも疎かにはできない。

況んや、人も家族もご縁で結ばれている。

三ヶ月ほど前、闘病中の倅の嫁の父をお見舞いに仙台まで相方と一緒に寄せていただいた。

最初の言葉は、『初めまして、ありがとうございます。』だった。

ここまで育ち、育てていただいたことがありがたい。

励ましの意味を込め、『元気になられたら、一緒に飲みましょう。』というのが最後の言葉になってしまった。

一緒に酌み交わしたかったなぁ。

もう、会話はできないが、いつも傍におられると信じている。

今まで、何遍となく別離の情を言葉にしてきたが、我が身に振り返ると至極残念としか言い様がない。

願わくば、諸仏のお仲間入りをなされ阿弥陀さまの傍に納まるのではなく、いつでも、どこにでも還ってきてほしいものである。


サンライズ

 

長男嫁の父が亡くなられた。

子供達は3月に入籍したばかりだったが、既にお父さんは病魔に侵されていたのだ。

滋賀での挙式はいつでもできるという思いのもと、父に花嫁姿を見せたいという二人は仙台で小さな結婚式を挙行した。

それでも父は病室を離れることはできなかった。

当家も高齢の母と法務の都合で、身動きできない状況だったので弟が代表出席してくれた。

その状況は、病室と式場と当家をSKYPEにて三次元配信で目に飛び込んできた。

病室から父の喜ぶ声が滋賀まで届いてきた。

去る6月17日(金)のことだ。

そして、一週間も経たない翌週の6月22日(水)にお父さんは命終された。

実に五日後のことだった。南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ、なまんだぶつ。

息子にしっかりとグリーフケアを伝えた次第である。


サンライズ

下駄箱の上に置いてある金魚鉢が汚れてきた。

温かいのでエサを良く食べるが、食べ残しや日光で藻が繁茂してくる。

鑑賞のための金魚だが鑑賞どころではない。

夏場は頻繁に水の手入れが必要だ。

金魚鉢と聞いて懐かしいのが経営改革を引っさげて挑んだ前の職場である。

歴代の部長は専用個室で執務していて、スタッフは金魚鉢と呼んでいたらしい。

本来、金魚鉢は中が鑑賞できて意味をなすが、言わば不透明な金魚鉢だった。

そこではスタッフの顔色も行動も見えない。

愚僧は、置物として赴任した訳ではなかったので、愚僧は赴任した当初から金魚鉢を出てスタッフと同じ事務所の一角で執務を取ることとした。

スタッフの状況も一目瞭然だし、逆に愚僧の状況も丸見えだ。

五年契約の改革だったので、いちいちノックして部屋に入ってもらい、意識的に下げたくない頭を下げて出て行かれること自体が時間の無駄であった。

つまり、言っ放しではなく、お互いが手の抜けない状況に追い込んでいった。

甲斐あってかどうか、飲み会などで『お車が参りました!』という葬り方は完璧に消え去ってしまったので、何時まで経っても座を開けられなかった。

沙汰の善し悪しには様々な論議があろうが、応えは当事者が出すものではない。

黙っていても、将来の病院稼働率が応えてくれる筈である。


サンライズ


突然だが、現在、フォーク純歌手の遠藤賢司(エンケン)が活動休止している。

その理由は悪腫瘍とのことだ。

遠藤賢司といっても殆どテレビ出演していないのでピンと来ない人が多いだろう。

愚僧は数十年前に豊中市民ホールでのリサイタルで彼の歌を知った。

フォークの原点といえば、岡林信康、泉谷しげる、吉田拓郎などを思い浮かべる人が多いだろうが、遠藤賢司(エンケン)はただものではない。

ベトナム戦争が終結した頃にデビューし、ファンも実年層から若年層までと幅広い。

代表曲は『カレーライス』だが、愚僧は『歓喜の歌』が気に入っている。

テクニックも独特で、上手いのか適当なのかがよくわからないが、程よい感じである。

ライブが終わるとアマチュアのように爪が欠けて出血しているといった始末だ。

早く病気を克服してほしいと願っている。


サンライズ


『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし』とは、歎異抄に出てくる親鸞聖人のお言葉である。

『いずれの行も及び難き身』という表現は深ものがある。

難行、苦行を果たし得た人のみぞ申せる言葉である。

結果、『自らの力ではどうしようもない煩悩燃盛の私に与えられる場所は地獄しかない。』ということだろう。

この表現で大切なことは、阿弥陀さまが与えてくださった地獄があるとすれば『喜んで承服する。』という覚悟と同時に『救いは阿弥陀さまの本願以外にはない。』という確信が窺える。

だから、凡人の理解では難しい。

つまり、凡夫は『地獄行き間違いなし。』なのである。

その因は、『このような私であるから阿弥陀さまは放置する筈がない』という救いの手立て(弥陀の本願)があったからこそ『一定(いちじょう)』という表現に繋がっていく。

そう考えると一定はとてつもなく広大な一定なのである。

深く味わっていきたいものだ。


サンライズ


昨日は、地元の人権啓発推進協議会の会合に出席させていただいた。

案内には服装まで書かれておらず、胸に名札を掲げ、スーツ・ネクタイ姿で参席させていただいた。

すると、地元市役所の元部長に会場の入り口で出会った。

いきなり、『どこへ行かれるの?』と聞かれ、『人推協(人権推進協議会)の会合』と応えると、『そんな、堅苦しい会合ではないですよー!』とコメントをいただいた。

我々、僧侶は会合(法要・式)の服装(装束:しょうぞく)の案内は、必ず事前に記載されているのだが・・・。

従って、社会通念上の格好で参席させていただいたまでの話だ。

確かに、他の方々はポロシャツ、カッターシャツにノーネクタイでおまけにスリッパだった。

でも、愚僧は間違ってはない。

まあ、装束のお話はこれぐらいに留めおくが、忙しくなるに連れて愚痴が出るのは感心できるものではない。

煩悩深き我が身なるが故にこれ以上の由もないが、承けた限りは精一杯お努めするしかない。

で、装束は、回を重ねつつ判断するしかなさそうだ。


サンライズ