ひのきょうのブログ -10ページ目

ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


先週、重要そうな会合に誘われた。

なぜ、愚僧が呼ばれたのかよくわからない。

将来、到来するであろう事業の懇談だった。

相談を依頼する側も、一定の相談をしたという経緯が必要だったのかも。

そういう意味では愚僧も経験者の一人として扱われているというのは光栄なことだ。

しかし、昔から愚僧の持論は、『執行部がすべて』だと思っている。

役員さんや議員さんの前でよく大口を叩いてきたものだ。

執行部が脆弱だと逆に叩かれる。

そもそも、執行部以外の者(愚僧を含む)は何とでも申せる。

『じゃあ、お前、やって見ろ!』と振られたところで及ばないものがある。

つまり、ポジションが違うのだ。

エンジンにはなれないがセルモーターみたいなものかな。

良いセルモーターとなれるよう、今後の行く末をしっかりと見つめていきたいものである。


サンライズ

つい思わず、『暑い!』と口に出てしまうほどとにかく暑い。

雨が降っても外気温じゃなく蒸し暑い。

先日も関東地方では38度を記録したとのこと。

梅雨が明けていないのにこの様は何じゃこりゃー。

人間の体温は平均36度だから、物理的には布団かぶって寝ていた方が涼しいということになる。

いつか天気予報でも、『明日は外気温が体温を上回りますのでお布団にくるまって寝ていましょう。』というような放送が出現するかも。

通販など、体温を防護する夏用の毛布が販売されるかも知れないな。

まあ、布団の中では対流も起きないし、風も無いからそんなバカな事にはならんだろうけど。

そこで、愚僧流には、朝一番に風呂に水を張る。

そして、汗が止まらないときは水風呂に入って芯から冷やす。

こんな思考回路になる前に己の頭を冷やせばいいのかもな。


サンライズ


蟻が頻繁に行き来している。

古来より『蟻の門渡り』と言うように列を作って這っている。

道から外れることなく足跡もないのに縁石に沿って行ったり来たりするのはお見事だ。

恐らく、臭いが残っているのだろう。


じっくり眺めているとその習性がまたおもしろい。

双方が鉢合わせする度に頭を寄せ合って何かを確認し合っている。

お互いが挨拶しているように見える。

人間でも挨拶できない人がいるというのに。

挨拶は、仲間や家族が共存していくための大切な習慣とも言える。

誰でも、朝一番の挨拶は気持ちが良いものだ。

蟻から学ぶことが多いな。


サンライズ


『くださる。』とは自分以外の方々が、成す行為の丁寧な表現である。

もう少し分析すると、ある行為に甘んじる側の者が使う言葉として用いられる。

それはそれで良いのだが、文字表現の際に『下さる。』という漢字はどうかと思う。

ある行為を享受する者が勝手に『下さる。』と思っているだけであって、そもそも、上も下もない。

また、『申し上げます。』の『上げます。』というのも目上の方に対して使用する表現なのだろうが、これも上を使うのはどうかなと思う。

何を根拠に『上か、下か』なのではなかろうか。

そもそも人間は生まれながらにして平等であって、こうした表現そのものが区別や差別を助長しているように思えてならない。

謙遜の意味で使いたい気持ちは判らんでもないが、ひらがなで十分ではないのかな。

こうした漢字の使い回しは、愚僧が中学性の頃、父から教わった。

それ以降、その通りだと思い、慶弔事以外はできるだけ上下を用いるのは避けている。

ご門徒さんへの通知文書も徹底して上下は使わない。

むしろ、知らず知らずに上下漢字をを使用するのが社交辞令としていること自体が問題なのであって、漢字表現には十分注意したいものだ。


サンライズ


もうすぐ土用がやってくる。

土用といえばやはり鰻だ。

昨年も鰻を食べたいという家族の趣で鰻屋に行った。

ところが、鰻の写真が申し訳なくお粗末な感じだったので、愚僧だけがトンカツを頼んでしまった。

また、幼い頃にスペシャルカレーを食べようとわざわざ京都のブランド店に行ったことがあるが、当日のお奨めメニューとして旨そうなカツサンドがあったので、愚僧はサンドイッチを頼んだ。

みんなは七面鳥の入ったスペシャルカレーを食べながら、『そんなんでいいの?』と耳打ちしてくれたが、余計なお世話だった。

その瞬間、瞬間に自分の目で確認して選ぶ。

つまり、次の出遇があるかどうか判らないないという性分は昔から直らない。

だから、場外馬券は買わず、必ずパドックに行ってから選ぶ。

あまり、勝ったためしは無いが、勝ち負けよりも納得するかしないかなのである。


選挙が迫ってきているが、今や公約は公約でなくなりつつある。

イギリスでは遊び感覚で国民投票が行われているらしいが、ジョークにもならない。

他人が書いた一夜漬けの能書きよりも平素の姿勢に尽きる。

その時、その瞬間に自分の眼で決断するしかない。

初志貫徹の精神も大切だが、状況によっては脆くも崩れ去るものである。

今更、性分だけはどうしようもなく、了解せざるを得ない。


しかし、よく考えば愚僧のトンカツと坊守の鰻丼を二分すればよかったのだろうな。


サンライズ


半期の税務仮申告ということで今年も前期の納税を終えた。

お寺も税務的には小規模事業所というのだから穏やかではない。

法務(宗教)活動はどう考えても商取引きではないし、サービス業でもない。

親しい僧侶に聞くと『税金なんて未だかつて払ったことがない。余計なことをするからややこしくなる。』という。

すごい僧侶がいるものだ。

姑息な手法だが、昨年は法人の非課税通帳を作成した。

ここから出すと所得となり課税扱いとなるが、出金しない限りはいつまで経っても非課税だ。

そのうち僧侶退職金でも積み立てようかな。

辞めはしないが、いずれ働けなる時は必ずやってくるのだからな。


サンライズ

自坊にいるといろいろな電話がかかってくる。

第一声は、ご主人様おられますかが殆どだ。

多分、愚僧の姓が読めないのだろう。

その、殆どは商品の売りつけやリフォームばかり。

しかも、手が離せない時に限ってかかってくるからそのギャップは大きい。

中には寺院関係の商品斡旋もある。

寺号は『覚性山 佛眼寺』と書いて『かくせいざん ぶつがんじ』とは読まない。

そもそも、佛教に心得のある者は『覚性(かくせい)とか佛眼(ぶつがん)』とは読まないのが通常だ。

正しくは、『かくしょうざん ぶつげんじ』である。

それを、ぬけぬけと『かくせいざん ぶつがんじさんですか?』と聞いてくるから、偽物だとすぐに判ってしまう。

覚性(かくせい)というのは、性に目覚めることである。

言うまでも無いが、覚性(かくしょう)とは仏性(ぶっしょう)に目覚めることを意味するのであって、性(せい)に目覚めることではない。

そう簡単には読めない『寺号も姓』も時には役に立つことが多いものである。


サンライズ

専門用語として使われているカイザーとは帝王切開のことである。

カイザーはドイツ語読みであって、英語読みではCizer(シーザー)である。

ドイツ語ではKaisers chnitt(カイザース シュニット)、英語ではCaesarean section(シーザーン ゼクチオン)となる。

カイザーではピンとこないが、シーザーと発音すると『帝王』が想像できる。


そんな訳で、嫁ぎ先の娘は、来週11日に4回目の帝王切開に挑む。

第1子の時に緊急で帝王切開を余儀なくされ、以降、その繰り返しが続いている。

お産回数が増えるに連れてハイリスクとなるが、『よく頑張るな!』と我が子ながらその勇気に脱帽である。

どうしても女の子が欲しいとのこと。

親としてはどちらでも良い。

無事、母子ともに健康でお産を済ませていただきたいものである。


サンライズ

最近、何かと辛気くさいことが多い。

パソコンを起動すれば、何度も切れた後、やっとの事で起動する。

ごちゃごちゃしているうちに、また初めから起動するという始末だ。

TV番組をつければ、なかなか見たい番組に到達できず、スイッチを押し間違えているのだろう。

外に出ようと思い、草履を履けば、親指に鼻緒が絡んで旨く履けない。

そうこうしているうちに小指に引っかかって草履が反転して裏返る。

そして、食べたいおかずを取ろうと手を伸ばすと湯飲み茶碗がひっくり返る。

一体、これはどうこと!

そもそも、辛気くさいとは、障壁の存在などにより事が思うように運ばず、焦れているさまのことを言う。

つまり、障壁はどこにあるのか。

それは、パソコンでもないし、TVでもないし、草履でもない。

障壁は私自身なのだ。

よくぞここまで絡むかなと思いたいが、よくよく考えれば、すべて私の行いで生じている所作なのだ。

辛気くさいのは、私自身以外にあるのでは無く私自身なのであった。

答えは大凡見当が付いていたが、改めて味わわせていただいた。


サンライズ


ここ滋賀では未だ梅雨は明けていない。

でも、朝からミンミンゼミがうるさく鳴いている。

もう少し地中に居ても良かったのに、仕方なく現世に出てきたのだろう。

こんなことでさえ都合通りにはならない。

後に盛夏が訪れる可能性が高いので、蝉も今から泣き続けねばならず気の毒なことだ。

しかし、常に地上の王のごとく居座ってきた人間どもは勝手に宣う。

『暑い夏もかなんけど、寒い夏もかなんな。』

ついでに、『あの仏様はかなんけどこの仏様は好きやな。』と。

そこで、仏様は宣う。

『能く周りを見ろ。あんた中心に時勢が動いているのではなく、時勢(ご縁)の中にあんたが置いてもらっているだけ。』と。

成るようにしか成らん中でどう生きるかなのだ。

外ばかり見ている生き方は、不平不満の塊でしかない。

生き方は外にあるのではなく内に潜んでいる。

つまり、『内観』だ。

内観とは、己の置かれている状況に慚愧することかな。

真宗は、内観の教えそのものである。

あの、桝添さんも随分と外観で責められたが、内観はどうだったのかな?

あまり興味もないけど。


サンライズ