これまでにアップした「交通局番号の蘊蓄1」「同2」で述べてきたように、神戸市バスの交通局番号は基本、登録番号(ナンバープレート)と同じ数字で進捗してきたが、登録番号の制度が1970(S45)年9月(一部地域除く)から従来の分類番号1桁から2桁(例:神戸2→神戸22)に変更されたことに伴い、事業者毎の割当制度が廃止、届け出順となった。つまり、大判プレートでは「神戸22か」は「・・ ・1」から届け出た順番に登録されることになり、各事業者毎で設けていた連番ではなくなった。

 これにより、従来法則性連番で車両管理を行ってきたものを一からやり直すか、はたまた従来方式を事業者内で踏襲するか…となったわけであるが、神戸市や神姫バスは後者になった。また「登録番号で車両管理」としていた事業者は敢えてそのまま飛び番で登録番号を以て社番(車番)としたところも多く、明石市、姫路市、山陽電鉄、等の他殆どの貸切事業者はそうなっている。

 この話をナンバーの話題に偏重して進めるとどんどん脱線していくので、軌道修正をして神戸市バスのその後に戻りたい。

 

 1970年9月以降登録の車両は神戸市の場合、従来の番号からの続きを踏襲した方が都合が良かった様でそのまま局番として「神戸2き」の続番が続く形となった。

 これを出すのは少々恥ずかしいのだが、趣味の先輩たちからご教示頂いた資料や台帳を基に独自に制作した「神戸22か」台帳の一部。もう30年以上前に作り始め、「神戸22か」だけでノートが5冊近くになった。上に挙げたのは神戸市で「神戸22か」を付けたトップグループのところ。

 私がバスの撮影を始めた年代の兼ね合いでここに挙げた神戸市の昭和45年式は既に全廃していたので、写真は趣味の先輩方撮影分から載せている。

 前述の通り、神戸市は同年秋導入の新車陣から「神戸22か」を付けたが局番は「神戸2き」の続番となった。つまり神戸市では「局番」という概念が強かった為に登録番号とは別の体系で車両管理が行われることになり、以後連綿と続いている。

 従来、正面と後面は登録番号で判別出来たので、局番のペイントはなかったがこのグループから必然的に局番をペイントするようになった。「神戸22か・・ ・1」~の登録ということで、当然ながら若番のいすゞでは001~の続番ゆえに「神戸2き・・69」以降と「神戸22か・・69」以降が登録番号上ではダブることになり、局番ペイントは必須だったと推察する。

 では以下エンジンメーカー毎に解説したい。

 

◎いすゞ

 127号以降が「22か」。この界隈は1972(S47)年までBU05形を導入、S46年式ではいすゞでは数少ない西工カマボコを架装した163~167号もいたが、それ以外は全て川崎。その後196号まで進番し、1973年でBU04形にスイッチ。

 写真上はS45年式129号、有野のツーマンカーである。横の088号は「神戸2き」であるので重複の様子がよく分かる写真でもある。真ん中はS46年式の165号で西工、下は最後のBU05のグループでS47年式。188~196号がいたが、撮影時既に廃車となり、登録番号が切られた後。

 197号は最初のBU04形。この車の撮影は営業時には間に合わず、廃車間もない頃。この年式の車体メーカーの特徴として、正面方向幕窓が挙げられ幕窓のHゴムが幕最大寸法になり、系統幕と方向幕の間は塗装で区切られていた。

 197号以降はS55(1980)年式までBU04形(K-含む)を導入。写真は上からS50年式280号で元ツーマンカーからのワンツーマン改造車で増設前ドアのガラスが上下ぶち抜きの格好良い仕様。その下、S51年で300番台に入り、S55年でK-CLM470、CJM470形にスイッチ、翌年からCJMに一本化されS57年式で400番台突入、モノコックはS59年式の456号まで続いた。

 次の年のS60年式ではキュービックP-LV314L形初登場で457号がトップナンバー。以後U-LVやエアサス化となり500番台にそのまま突入。以後の解説は次の機会で取り上げたい。

 

◎日野

 日野は816号から「22か」であるが、型式は従前より一貫としてRE100形。但し、車体メーカーは帝國、金産、西工と見応えがあった。

 白黒写真は上から817、819号で同期ながら前面方向幕仕様が松原と玉津で異なっているが819は元々系統幕があった。しかし当時の玉津仕様で後に系統幕を撤去している。更に819はオーバルライトから通常のシールド4灯に換装されている。  

 S45年後期の車体メーカーは帝國、翌年は帝國と西工で占められ、869号は神戸市の帝國最終番号車。その下、870号は同期で金産だが、舞子線向けで874号までいた。まだ前乗り時代ゆえに、側面方向幕窓が前後2箇所持ちが特徴であった。

 以後S50年式まで車体メーカーは金産オンリー。但し、日野車体合併前は帝國仕様の金産コーチとなっているので注意が必要である。翌年から新鋭日野車体へ。写真下から2枚目900号(金産)は元々舞子線用であったが、後年玉津車庫へ転属の際に方向幕窓改造(系統幕撤去)され、後に再度垂水へ戻り、再び系統幕新設となったが新車時と異なり、系統幕の位置が左右入れ代わった面白い例。その下962号二態はS51年式日野車体だが、これまた中1扉ツーマン→前後ドアワンマン大改造車で前ドアが日野オリジナルパーツと異なる。

 また新製時は玉津で後に垂水転属でこれまた方向幕改造されているが、新車時はしっかり系統幕は装備されていながら玉津では一頃系統幕使用を止めていたため、殆どの車が写真の様に一体化改造され系統番号を刷り込んだ方向幕になっていた。

 その後S54年式で980番台まで進番、RE101形となり再び西工(78MC)も併採用されながらS55年式でK-RE101形となり下段の995号は900番台最終車。

 尚、この頃の話題として松原車庫向けは西工、垂水車庫(玉津含む)は日野車体と振り分けられているが、これは当時の冷房車のリアに搭載されていたクーラーユニット高さの関係で松原の出先休憩所である神戸駅北側にあった橘操車場の天井高さの加減によるものであった。

 995号の次はどうなるか、私も含め当時の局番体系マニアはやきもきしていたかどうかは分からないが、同じS55年式の増備車ではアッサリ先祖帰りして701号スタートとなった。この当時は同期を纏めて管理していた関係か、「兵2あ3399→3600」の時の様に(本シリーズ、局番蘊蓄1参照)同年式ながら番号跨ぎにせず綺麗に収めている。

 翌年708号からK-RC381形となり791号まで進番、S59年式の792号から市バス採用3メーカーで一足早くキュービックタイプのP-HT223AA形となった。今にして思えば西工も58MCにチェンジしていたから日野は純正(標準)車体共々四角い車体となったわけで、個人的には好印象であった。

但し、この最初のHTは低床車で無かったため特に西工車は腰高感半端なく、日野車体車より見た目若干損をしていた。その後HT233BA形に型式変更されそのまま800番台で進み、U-HT2系で二代目900番台に進番した。

 

◎三菱ふそう

 ふそうはS45年式1227号から「22か」。この頃はふそうも西工と三菱純正(標準)の2社採用で1200番台~1300番台に進番。呉羽車体はこの頃既に導入されなくなっており、西工もふそうはS49年式を最後に一旦姿を消す。下のカマボコはS48年式MR410でこの年式まで標識灯を装備していた。

 ふそうも日野RE100形同様一貫してMR410形時代が長く続く。上はS51年式1387号で1300番台のラストナンバー。実は1390番台は別枠で貸切枠であった。かつて3メーカーとも貸切車(兼用車含む)の採用はあったが、1970年頃では既にふそうのみとなっており、局番も一般路線車同様のふそう枠に収められていた。しかし、耐用年数が路線車に比べて短く、車両表でも同年式の路線車より早く消えて穴が開く状態が好ましく無かったのか、新たに1390番台が起こされている。貸切車については次回以降に解説予定。

 S51年式後期車ではふそうは1001号にスイッチするがこれは先祖返りではなく、新たな番台(神戸2き時代は1101号~のスタート)。上はそのトップナンバーだが、丁度車体メーカーのマイナーチェンジと重なり、新顔で新局番と偶然とはいえなかなかキリの良いスタート。またこの1001号のグループからエンジン音も微妙に変化している。その下はMR410形のラストナンバーでS52年式1026号。翌年式から新型ボディ新形式のMP107K形となり1026号の下の写真はそのトップナンバー1027号。S54年式では冷房ユニットが床下から屋上となっている。下は1000番台ラストナンバーの1043号。新製時は魚崎であったが後に石屋川に転属、石屋川時代の系統・方向幕はエアロスター登場後のフォントになっており、転属だけに同期辺りの幕と異なっていた。

 S54年式からK-MP107K形となり、なんと言っても局番の番台変更で044号~となったことが特筆に値する。

 実はふそう局番は長く4桁であったが、呼びやすさから下3桁呼称が現場では浸透しており、操車上からも3桁が好ましいとのことで変更されたそうだ。実際私もかつての阪神御影操車で4桁局番車をマイク放送では3桁で呼んでいたことはしっかり記憶に残っている。

 ここでふそうの0番台始番が初登場するのである。以後3桁で進むが100番台に突入してからも私の頭の中では「1100番台」と勝手に思っていた(笑)。

 その後S56年式でK-MP118K形にシフト。上の057号は魚崎の車だが、貸切仕業で名谷駅に姿を現したところでこの頃、名谷団地の新設で見学会が何度も組まれており、名谷で魚崎車がしばしば見られた。魚崎からだったのはこの頃の貸切基地が魚崎が主だったからのようで、車内にもガイドさんの姿も見える。更にこの当時局番表記の大きさが魚崎だけ一足早く大型化されており、これも先の御影操車の関係で、操車小屋から局番を把握するために大きくなった、と当時関係者の方から伺っている。

 057号の下は短命に終わった「灘」車庫マーク付きの117号。翌年の灘向け新車は落合開設が決まっていたため、直ぐの転属となることから車庫表示はなかった。

 その下写真2枚はMP118形の最終番号S59年式132号。排ガス規制は「P-」で、ユニバーシアードのペイント時と解除後。解除後の企業広告がしっかり「三菱ふそう」なのは当然狙って、とのことであろう。

 翌年式は人気の初代エアロスターで上の写真、133号がそのトップナンバー。下の150号は同期車で133号の低床に対し標準床である。以降、~199となり、そのまま200番台へ進行している。

 そして「ふそう」と言えば忘れてはならないのが電気バス1500号。いずれこの電気バスの話題も取り上げるが、この車はS51年式のME460形。詳細は電気バスの話題の時に述べることとして、今回は局番に特化してのお話し。

 この「1500」と言う数字、「神戸2き」時代の神戸市割り当て枠のラストナンバーであり、素晴らしい付番の采配だと思っている。つまり、通産省(当時)からの借入車であり在籍が長くないことで、従来のふそう枠に早々穴が開かないように?も考えられてか、上手い具合に空き番号であったふそう枠のラストに収めた、というところなのである。

 

 さて、少し長編になってしまったがざっくりとこんな感じである。この年代の車たちは今でも素で局番、年式、型式が直ぐに出て来る。それだけ思い入れのあった年代のバス達なのだ。

 この後局番蘊蓄は貸切車編、初期交通振興編なども随時取り上げて、今回の路線車の続きも解説予定だが次回「4」は一休みして局番プレート蘊蓄を纏める予定。