発達障害の方にみられる様々な問題行動の原因を紐解いていくと、結局は愛の欠乏感に辿り着くのだということがお分かりでしょうか。彼らはそうやって必死になって寂しさや虚しさ、悲しみ、得体のしれない喪失感と闘っているのです。

 

 発達障害は先天的な脳機能の問題・・・ということが言われています。実際にはそうではないのですが、ここでは仮にそうだとしておきましょう、彼らはそうやって脳に何等かの問題を抱えて産まれてきた、それが故に母親との間で適切な応答性を示さなかったのです。子に応答性がなければ母親がいくら良い養育をしても彼らの愛着形成にとっては不十分、あるいは的外れたものにしかなりません。そうして健全な愛着が形成されず、そのまま体だけ大人になってしまったのです。

 

 健全な愛着が育たないと心の安全基地もできません。だから、こだわり行動や強迫行為など、仮初の安全基地をつくってそこに固執するのです。

 

 発達障害の人の特性で、同じ行動パターンを繰り返すとか、極端な趣向の偏り、急な変化に弱い、あるいは潔癖症などを含む強迫行為がありますが、それがやめられないのはまさにそれが安全基地として機能している側面があるからではないでしょうか。だからこそ、それが失われた時彼らはパニックに陥ったり、情緒不安定になってしまったりするのです。それは自分の安全が脅かされたと感じるからに違いありません。

 

 ここで私が皆さんに問いたいのは、それを本当に発達障害の症状ですと言ってしまっていいのですか? っていうことです。

 

 これはむしろ 愛着障害 ですよね?

 

 こうした愛着障害による症状を「発達障害の特性」といい切ってしまうのは、半崎さんのセッションの中で私が例え話で出したように、骨折をADHDの症状だと言うのと同じくらいの論理の飛躍があるわけです。私は決して笑い話をしたのではなく、こうした「風が吹けば桶屋が儲かる」式のこじつけ論理が発達障害に関しては世間で当たり前のようにまかり通ってしまっていることを訴えたいのです。

 

 ですから、発達障害の特性とされる様々な症状を産まれる前からの脳機能の問題の結果だとするのはあまりにも乱暴です。発達障害故に多くの人が愛着障害になってしまいがちであり―――その愛着障害が原因で、様々な(発達障害特有の)症状が出てしまっていると考える方が自然です。発達障害の特性について考えるのに、愛着という重要なプロセスを見落として語るべきではない、ということです。

 

 一つここでどうしても挙げておきたい具体例があります。最近どういうわけか発達障害の人たちが繊細だ、敏感だ、感じやすい、傷つきやすいなどと言われるようになりました。私はこの風潮に唖然としております。だって、どう考えても真逆じゃないですか。彼らはむしろ周りの空気が読めず、他者の気持ちに無頓着です。

 

 それはおそらくこういう理由です。彼らは「周りの空気が読めず、他者の気持ちに無頓着」だったが故に仲間内で孤立したり、何かしらの制裁を受けたりしてショックを繰り返し受け、トラウマを作ってしまったのです。その結果、集団の中に放り込まれたり、同じような対人シチュエーションを迎えるとそのトラウマが刺激され、さも「敏感に」反応するというわけです。(肌の傷口に触れると痛いのは当たり前の話です。それを「私の肌は敏感だ」なんて言わないでしょ?っていう話です。)

 

 ですから彼らのいう「繊細だ、敏感だ、感じやすい、傷つきやすい」は、客観的にみるとただの「被害妄想」でしかありません。トラウマを放置しているだけの話なのです。

 

 そしてもちろん先天性のものでもありません。対人認知の礎になるのは幼少期の母親との相互交流の経験を通して作られた内的ワーキングモデルだったことを思いだしてください。つまり、これも愛着障害の結果なのです。

 

 トラウマはもちろん治療することができます。そのトラウマを放置したまま「繊細だ、敏感だ、HSPだ」などと言ってさぞかしそれが優れた特性であるかのようにアピールし、あまつさえ周囲に気遣いを要求するような態度は、私には滑稽に映ります。自分の内面の問題に取り組まず、そうやって周りに負担を強いるのは彼らの 男性性 に由来するところでして、そうした錯覚に基づいた訴えに周りがまんまとのせられてしまっているということです。発達障害の二次障害として多い自己愛性パーソナリティ障害の傾向を助長するような論理の飛躍はやめるべきだと思います。

 

 こうしてこれまで発達障害の特性と言われていたものの本当の原因を紐解いていくと、ほとんど愛着の問題に辿り着くであろうことが見えてきました。・・ということは、(繰り返すようで恐縮ですが)これまで発達障害の特性であり先天的なものだから治らないなどと言われてきたものはほとんど、努力次第で後からいくらでも改善できるということです。ですから、発達障害の方やその支援者の皆様には大いに希望をもっていただきたいのです。

 

 発達障害当事者の方が内観をするのに、あるいは彼らを支援する方々が彼らのことを深く理解するために、その人は 愛の欠乏感をどうやって埋め合わせし、何を心の安全基地の代わりにしようとしているか 、の二つを軸に考えることを提案したいと思います。そうすると、どんな問題行動も実は愛が欲しい、安全が欲しいというシンプルな動機に基づいていることがわかるので、対策が見えてくるのです。

 

 これまでにパーソナリティ障害のお話をしましたね。発達障害にある人はパーソナリティ障害として知られる性格傾向に傾きがちだということを申し上げました。パーソナリティ障害はこれまでざっくりと15種類ほどのものが提唱されています。そのうちの一つだけに当てはまる人もいるでしょうが、多くは複数にまたがってその性格傾向がみられるというものでしょう。

 

 二次障害として依存性パーソナリティ障害の傾向がみられた半崎さんの場合は愛の欠乏感を他者からのケアで埋め合わせようとしました。そしておそらく「一人では何もしないこと」を心の安全基地として見立ててしまっているのでしょう。

 

 過剰に人によりかかろうとするそうした性格傾向は境界性の人にも見られます。これまで特に注目してきた劇場型と言われるB群、その中でも自己愛性や演技性については愛の欠乏感を他者からの注目や関心、賞賛で埋め合わせようとします。そして自分は人並み以上に優れているという妄想に耽ること、賞賛してくれる人に囲まれることを心の安全基地の代わりにしているのです。

 

 発達障害の二次障害として最も多いと(精神科医の間で)言われているのが、強迫性パーソナリティ障害です。強迫行動も一種のこだわり思考に基づいたこだわり行動といえなくはないでしょう。そうしたこだわり行動は一見愛の欠乏感とは関係ないように思われるかもしれません。しかしながら、自分のお気に入りとは違う環境や状況におかれると怒ったり暴れ出したり、泣き出したりするのはその環境が自分の安全を脅かすほどに不快であり、怖くて、不安を喚起するものだからです。つまりお気に入りの環境にいることやこだわり行動によって仮初の心の安全基地を担保しているとみることができるのです。

 

(続く)