縄文時代は大自然に恵まれ、人々はその恵みに感謝し、必要な分だけを頂き、仲間と分かちあいました。何か不便があっても、その環境を変えようとは思いませんでしたから、自然は自然のままでした。人類が生き延びるためには自然の周期を受け入れ、同調する必要がありました。環境のリズムの方へ、自分をあわせていく生き方です。こうした意識のあり方を「意識が内向きである」といいます。

 

 それに対して弥生時代以降の男性性優位な社会では、自然の方をコントロールしようとします。不便があれば、便利なように作り替えようとしますので、それまで自然の摂理にかなった生活だったものが、灌漑をして水を引き、農場を作り、道具だって多くのものが発明され、開発され、効率が良くなりました。つまり、人間が環境に合わせるのではなく環境の方を人間の都合で作り変えようとする生き方です。

 

 

 確かに、それで世の中は便利になっていったのです。現在、この文明があるのはむしろ男性性のおかげです。こうした状態を「意識が外向きである」といいます。

 

 ここで幼児性にも言及いたしますと、幼児性は男性性よりもさらに意識が外向きです。心が未熟な状態ですので、周りからの精神的ケアがないと生きていけないという状態です。

 

 例えば、自己愛性パーソナリティ障害の方は、自分が愛されているという実感を得るために、自慢したり自画自賛をしたり外見を気にしたりということを過剰に行います。愛の欠乏感を埋め合わせるために、そうやって周囲からの注目や賞賛を必要とするわけです。また、自分が欲しいものを持っている人を妬み、憎しむという性質もあります。自分に足りないものを周りに求めたり、周りが自分に与えてくれるように仕向けたりするなど、自分の心のあり方を変えるのではなく周りに働きかけるのです。

 

 意識が内向きか外向きかという観点では、極端に外向きな幼児性の対局にあるのが女性性であること、その中間に位置するのが男性性であることをご理解頂きたいと思います。どうして女性性優位な態度が精神的に成熟した姿であるのか――つまり意識の高い状態なのか――ということは、幼児性の対局にあるからと考えるとわかりやすくご納得いただけるかと思います。意識は自分に向かうから自分が成長するのです

 

 女性性と男性性の本質は意識が内向きか、外向きかということなのだということがわかりました。女性性の方が霊性が高いということは、意識を内向きに変えていくことが霊性向上のカギとなるということになるのです。

 

 「自分の目の前の現実は自分(の内面)が作っている」という身も蓋もない言い方は私は好きではありませんが、これは端的にいうと「意識を内向きにしなさい」というのと同じことです。そしてやはりそれは真実なのです。

 

 よくスピリチュアルな取り組みで「批判はダメです」と言われるのは、批判とはまさにわかりやすく意識が外向きな状態であり、自分ではなく周りに問題があるとし、周りを変えようとする思考行動だからです。

 

 自分が何か批判をしようとしていることに気が付いたら、すぐに意識が外向きになっていることを自覚してください。これだけ批判について訴えても、自分が批判をしていることにすら気が付かない人が結構います。それは意識が外向きなのがデフォルト(あたりまえ)になっているからです。

 

 意識が外向きだと、環境だけでなくもちろん自分以外の他人にも意識が向かいます。何かとマウンティングをする、他者と比較し上下関係で考える、争いごとを好みやたらと戦おうとする、勝ち負けにこだわる、強いものに従い自分の内面の声を重視しない、権威に弱い、自分が変わるのではなく周りを変えようとする、問題を周りのせいにし解決にむけて周りに働きかけようとする、責任転嫁、被害者意識が強い、やられたらやりかえす復讐思考・・・といった男性性由来の性格傾向の根本原因は外向きの意識にあると云えるでしょう。

 

 意識を内向きに・・・といっても具体的にどうしていいかわからないという方は、上記の男性性由来の思考パターン、考え方をやめるということを意識的に行って下さい。特に、「批判」という思考行動には注意を払っていただきたいと思います。

 

 批判している自分に気が付いたら、自分は何の尺度を持ってその批判を行っているのか、その尺度を大切にしている自分というものに気が付くはずなのです。そしてその由来は何かということを丁寧に内観していって下さい。自分の批判に気付くことは、内観のための材料の宝庫を手にしたようなものなのです。

 

 批判については以前に5回のシリーズで書いていますので、是非、内観のための参考になさってください。

 

 

(続く)