発達障害を抱える人の周りにいる健常者の方はついこう言いがちです。

 

 「発達障害だから潔癖症?オレだってキレイ好きだよ。」

 

 「空気が読めなくて苦しいのはあなたばかりじゃない、私だってそう思って努力してる。」

 

 そして、どんなにか彼らの気持ちを理解し共感しているかということを示し、安心して欲しいというメッセージを送ります。健常者同士が通常そうするように。

 

 しかし、発達障害にある人は健常者が「理解してくれている」あるいは「理解しようとしている」ことを理解できません。発達障害の彼らは他者の気持ちがわからないし、他者の気持ちに無頓着だからです。

 

 だから彼らは「わかってくれない!」と嘆き、「私の話を聞いてくれ」「私のことを理解してくれ」と、時には口に出して、あるいは心の内で、延々と喚き散らすことになります。そのエネルギーは凄まじく、周囲の人の心の健康を奪うほどです。

 

 カサンドラ症候群という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、それはそうした発達障害を抱える家族や同僚などが身近に存在する人が、通常よりも心的なストレスを大きく感じ、その結果不安や抑うつ症状など心身の不調を来す状態のことをいいます。

 

 発達障害の彼らは子供のころから親に話を聞いてもらえなかった、理解されなかったという思いを引きずっていることがほとんどです。しかし、必ずしも本当に彼らの親が話を聞いてくれなかったわけではありません。いくら愛情を注いでも、そのことを発達障害の子供側が理解できなかったのです。普通に躾をし世間一般の常識を教えようとしても、発達障害の子供は聞かない、やりたいことをやりたいだけやろうとするものです。だから親に受け入れられないように感じて傷ついてしまうのです。

 

 そしてそれ故に、内的ワーキングモデルも「躾をしようとする母親」vs「話を聞いてもらえない子供」という構図になってしまいがちです。だから大人になってからも誰からも話に耳を傾けてもらえない(と本人が思い込んでしまう、あるいはそういうシチュエーションを引き寄せる)のです。客観的にみれば他人の話を聞かない、理解しないのは彼らの方であるにも関わらず、彼らは自分たちこそ話を聞いてもらってない、理解してもらっていない、と思い込むのです。

 

 こうして彼らは自分のことばっかり喋ってあれこれと主張し周囲に要求するのに、誰の言うことも聞こうとしない困った大人へと成長します。それが発達障害を抱えた方々への支援を難しくしている一つの大きな要因となっています。

 

 また、半崎さんの例のように、発達障害の人は自分は特別だ、特別でありたい、と思っていることも多いので、こうした健常者の理解ある言葉がけに対して拒否反応を示すこともあります。わかってほしい、理解して欲しいと言いながら、特別扱いに味を占めた多くの人達は本心ではあまりそうも思っていないこともあるのです。

 

 発達障害の人達が訴えるところの「私のことを誰もわかってくれない」、そしてそれを一般拡大した「健常者は、社会は、発達障害のことを理解してくれない」は、そうした背景を加味して受け止める必要があるかと思います。そしてそれは全くもって言葉通りではないということです。しかしながら彼らがそう思い込んで傷ついているというのもまた事実なので、しっかりと傾聴を中心とした心理カウンセラーに存分に話を聞いてもらい、幼少期の母と子の関係をやりなおす必要があります。私が半崎さんに提案したのはまさにそういうことだったのです。

 

 発達障害とは文字通り発達の遅れです。発達が進んだ人(健常者)には発達の遅れた人の気持ちがちゃんとわかるのだということです。それは健常者の誰もが幼い頃に多かれ少なかれ、そうした未熟さを克服してきた経験があるからです。

 

 ですから、発達障害の人と関わるのに、健常者は過剰に恐れる必要はありません。ちゃんと彼らのことを理解できる素地を誰でももっています。ただ発達障害を抱えている側がそのことを(理解してもらっているということを)理解できない、というだけの話なのです。

 

 では時々言われるように発達障害にある方が他の発達障害の方を理解できる、とか、寄り添える、仲良くできる・・・などというのは本当でしょうか?

 

 いいえ、それはほとんど考えられません。他人の話を聞かない者同士ですから、互いに相手の話を聞けるはずがないんです。お互いに共感することもありません。したがって対健常者の時と比べてさらに薄っぺらい関係になりがちで、深い信頼関係は結べないでしょう。私も色んなパターンを見てきましたが、それぞれが勝手に自分の話したいことを話すだけで、やがてはお互いに嫌い合うことが多いように思います。親密になろうとすればするほど、互いに自分の幼少期の母親の姿を投影するからでしょう。それは自分の話を充分に聞いてくれない、厳しい躾けを要求する母親の姿なのですから。

 

 そしてこだわり行動についても、人によってそのこだわりが全く違います。たとえば音が過剰に気になる強迫タイプの人同士が静かな環境で一緒に暮らすなんていう状況を考えてみたとしましょう、いくら静かな環境といっても、お互いに生活音を発するわけですし、どんな音が気になるか、音の気になり方というものも人それぞれです。結局はお互いに気遣いあわなければならない状況になり、ストレスに我慢ができず、お互いに相手に対し「うるさい」と訴えるようになるでしょう。

 

 発達障害の人の、意識が外へ外へと向かう性質は、強いサイキックエネルギーとなります。しかも彼らのこだわり傾向のために一度始めたことを止められないため、一度彼らを怒らせると延々と絶え間なく強いサイキックアタックを送ってくることになります。

 

 私もつい最近のことですが、メールの返信が少し遅れただけで2週間ものあいだ尋常ではない強いサイキックアタックを送られて苦しみました。あまりの理不尽さに心が折れそうになりました。

 

 その方はメールを送ったらすぐに返信が来ないと気が済まないようで、ほんの数時間後にはまた別件のメールを送ってよこしました。別件とはいえ、文面からは前のメールの返信を催促する意図が感じられました。私はそのメールにも気が付かなかったため、その方は怒り出してしまったようです。その怒りのエネルギーでようやく何かメールが届いているのが分かったくらいです。それほどに強いサイキックアタックでした。

 

 私だって日中は接客があり、常にパソコンの前に張り付いているわけではありません。そして返信しようにもすぐにできる内容のものとそうでないものがあります。その二つのメールに返信した後も、その方からはなんだかんだと別件で何か要求するようなメールが送られてくるのですが、その文面は冷静さを装いつつも、ものすごい怒りとコントロール要求の強いエネルギーを感じます。森先生に確認すると、やはりその方からのサイキックアタックであることが確認できたのです。

 

 私は森先生のチャネリングで許可をとって、その方に思い切って、「強烈なサイキックアタックとなって届いているから、もう私の事は考えないでくれ」と連絡してみました。そんなことをしたのは初めてのことでした。しかしそれをきっかけにさらに強いサイキックアタックとなってしまい(怒ったんでしょうね・・・)、私は結局2週間もの長い間苦しい思いをしなければならなくなったのです。

 

 こうした発達障害の方の幼児性については、幼い赤ちゃん(乳児)を例にとって考えてみればわかりやすいかと思います。幼い赤ちゃんはお腹が空いてもおむつが汚れても、ただひたすら泣き叫ぶだけですよね。早朝であろうと、真夜中であろうと、母親がどんな状況であろうと、お構いなしです。母親は「すぐに」対処することを求められます。そして赤ちゃんは「母親」という同じ人物に対して、あるときは好意的な感情、ある時は否定的な感情という具合に、両極端の感情をぶつけるわけです。

 

 ちょっと難しいですけれど、この状態を専門用語で「部分対象関係が優勢である」といいます。自分の欲求を満たしてくれると満足し機嫌よくしていますが、少しでもそれが損なわれるとギャーギャー泣き叫び、不満と怒りをぶちまけます。これはごく幼い乳児の頃に典型的に見られる、発達の未熟な段階です。

 

 乳児にとってお乳がよく出るオッパイは「良いオッパイ」、出ないオッパイは「悪いオッパイ」でしかありません。それが同じ母親の同じオッパイであるという認識が育っていないのです。その場その場の欲求を満たしてくれるかどうかが「良い」「悪い」の基準になります。

 

 こうした部分部分で、また、その瞬間瞬間の満足、不満足で対象(母親)と結びつく関係のことを「部分対象関係」と呼び、離乳期から徐々に発達してくる「全体対象関係」の前段階である未発達な状態として知られています。

 

 「部分対象関係」に特徴的な状態として「妄想-分裂ポジション」があります。「妄想-分裂ポジション」とは、自分にとって思い通りにならない状況に直面したとき、その不快さをすべて相手の非とみなし、怒りや攻撃を爆発させている状態です。この状態においては、自分の欲求を満たしてくれない相手は「悪い存在」であり、つい先ほどまで自分の欲求を満たしてくれていた「良い存在」のことなどすっかり頭からなくなっているのです。それが同じ相手であるにも関わらず、です。

 

 当の本人は,相手(母親)が「変わった」「裏切った」と受け取っているわけですが、客観的に見ると当の本人の都合や満足度が変わっただけで、もちろん相手の方は何も変わっていません。

 

 赤ん坊がよく出ないオッパイに対して怒るとき、母親は同じように本人の欲求を満たそうと努力しているのです。しかし、思い通りにそれが満たされないと、赤ん坊は少し前のニコニコした状態とはうって変わって、怒りと不快さで泣き叫ぶ状態に様変わりします。母親の努力や気持ちは一切考慮されないわけです。

 

 これが「分裂」を起こしているという状態です。分裂を起こしているのはもちろん本人の心の状態なのですが、それが自覚されることなく相手に問題を押しつけて、「悪い存在」と見なしてしまうわけです。

 

 発達障害のような幼児性の強い人にありがちなこうした二分法的な認知の根源は、この「妄想-分裂ポジション」にあると言われています。妄想-分裂ポジションでは、たとえ自分の落ち度や非によって不快な状態が生じていても、その責めを相手や周囲の問題として感じます。それは自分と他者の区別があいまいで、周囲の存在を自分の一部や延長のように感じて、自分の思い通りになることを当然のように感じているためです。

 

 また、自分の心の中にある感情やイメージを周囲に投影し、それが一人歩きするということも起こりやすいのです。そのため思い通りになっているときは、過度に「理想化」する一方、思い通りにならない事態に出くわすと、「悪」「敵」と見なして、すべてを否定してしまいます。

 

 発達障害の人はこの「部分対象関係」が優勢なことが多いです。

 

 つまり、同じ人物でもその瞬間に自分の都合を満たしてくれるかどうかで「良い存在」になったり「悪い存在」になったりするということであり、分裂を起こしている状態なわけです。そのため相手との関係が連続性と恒常性を持ったものになりません

 

 これが、発達障害を抱えた人が他者と深い信頼関係を築くことを難しくしている根本的な理由です。

 

 こうした発達障害にある人達への支援を更に難しくしているのは、実は巷の「発達障害者リブ」的な情報のせいではないかと私は思っています。発達障害を抱えた人は上記のような著しい認知の歪みの中にいるわけですから、そうした人達の言葉を額面通りに受け止めるべきではないのです。

 

 ところが支援する側がおそらくこうしたことを知らないのでしょう、当事者の声は大事だからとその言葉を真に受けてしまい、散々に振り回されてきたのです。そうして得た知見など所詮その場しのぎの対処法にしか過ぎず、長い目で見ると彼らの成長を後押しするものには全然なっていない、と私は思います。

 

(まだまだ続く予定ですが、ここで中断したいと思います。)