おはようございます。
ひむかです。
今朝というか最近、なんとなく思うことを書きたいと思います。
いろんな人と関わる中で思うこと。
人って本当は一つなんだけど、エゴや我によって千差万別の世界を作り出しているということ。
エゴや我と聞くと、なんだか悪い事のように聞こえるけれど、それを発動させるきっかけって相手を思う気持ちだったり、優しさだったりもする。
また、自分を守るためや信念を曲げないためだったり。
別に悪いことではないんですよね
仕事でも家庭でも趣味の集まりでも、誰かのやり方が気に入らなくてイラっとしたり、何かを言いたくなったり、はたまた言わなくてはいけない立場だったり、いろいろあると思います。
相手の発言に同意できない時、相手の口から出る言葉だけに集中してしまうと、恐らく意見を戦わせることになってしまうと思います。
でもちょっとフォーカスを変えることで、相手の意見を尊重できるようになったりします。
どうしてこう考えるのかな?
その言葉の裏には何があるのだろう?
きっと私の知らない背景があるんだろうな。
自分の意見は絶対的に正しいのだろうか?
そんなこと誰にもわからないよね。
わかっていると思っていても思い込みかもしれないと疑ってみる。
だったら相手の意見を受け入れてみれば良いんじゃない?
意見をぶつけ合うのが楽しいことなら存分にやればいいけれど、それで誰かが嫌な思いをするなら、受け入れてみればいい。
神様にマルをもらえる(※)行動をすれば、宇宙の法則が働くので不利益は案外起こらないものです。
私たちの人生の目的は経験すること。
究極を言えば、
意見がぶつかるという経験
をしているだけ。
そこで発動させるのは、エゴや我ではなく、思いやりのほうがいい。
どのような事にも言えることですが、エゴや我で返しているうちは、同じようなことが何度も起こります。
思いやりを持って、相手を理解することは人生に豊かさをもたらします。
何でもかんでも深刻になって相手に自分の考えを認めさせようなんて思うのは疲れるだけ。
人は皆ちがう
とても面白い世界ですよね。
いろんな形の石で人は磨かれる。
そんな風に受け入れてみませんか?
※ 神様にマルをもらえるとは、斎藤一人さんの言葉です。
神様にマルをもらえる生き方をしようと。
何かを判断する時に、「神様にマルをもらえるか?」を指標にすると、とても楽しいですよ
それでは、今日もいっぱい、思いやりいっぱいで参りましょう