前方後円墳の起源について考察の変遷 | 生野眞好の日本古代史研究会記録

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在野の古代史研究家 生野眞好(しょうのまさよし)先生の勉強会や月刊誌フォーネットに連載中の記事の概要などを紹介しています。
「魏志倭人伝」や「記紀」などの文献史料を中心に邪馬台国の位置、ヤマト王朝と先興の奴国王家との攻防(宗教対立)と共存などの検証です。

 勉強会の資料を読み返していて、前方後円墳に関する生野先生の考察の変化がよくわかる時期があったのでまとめてみました。

 <平成21年(2009)6月、7月勉強会>・・・この頃の勉強会は毎月開催されてたなぁ~

  西晋朝成立の翌年(266年)の冬至の日に行われた天子の祭祀を記録した中国史料を手掛かりに、わが国の前方後円墳の起源や先駆者の山尾幸久氏について考察。

 ◆考察結果①(H21年6月勉強会ブログの抜粋)

  なぜ、中国には「前方後円墳」がないのか?→古来中国の天子は、都城の南側の円丘で天神や上帝を祀り、北側の方丘で地祇を祀っていた。つまり円丘も方丘も墓ではなく祭祀の場であった。西晋時代(266年冬至:11月16日)、北と南にそれぞれ別々に作られていた祭祀場が一つに合体されているが、あくまでもそれは天子が行う祭祀場であり墓としての利用ではなかった。

 

 なぜ、わが国で「前方後円墳」が突如登場したのか?→西晋で方丘と円丘が合体する直前の266年11月5日、倭人の使者(台与の時代)が中国に朝貢しており、この「前方後円」の祭祀場を見ている。天子のいない倭国では、その新しい祭祀場の形を「一王」ごと墳墓として緩用(転用)し始めた。

 

 ◆考察結果②(H21年7月勉強会ブログの抜粋)

 なぜ、山尾氏は「前方後円墳出現」に関する考え方を変えたのか?
 昭和47年初版の『魏志倭人伝』で主張した前方後円墳出現に関する考えを自身の未熟さによる恥ずべき失考として、出版元の講談社に絶版を申し入れている。結局、講談社の説得によって昭和61年改訂版『魏志倭人伝』を執筆するに至った。
 理由:
 1 山尾氏は邪馬台国近畿説論者であり、「箸墓古墳」=「卑弥呼の墓」と考えている。
 2 初版から改訂版を執筆していた頃、山尾氏は九州説の先鋒古田武彦氏らと激論を戦わせていた時期にあり、立場上「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説を捨てるわけにはいかなかった。
 3 後の調査結果で箸墓が最初から前方後円墳であったことが判明したため、当初の自説(前方後円墳出現は266年11月、西晋に朝貢した使者達が「前方後円墳形状」の祭壇を見て帰還した後、卑弥呼の墓の「円墳」に「方墳」をくっつけ、現在の「前方後円墳」の形に改造した)に固執すると、解釈に矛盾が生じた。
 4 そこで、邪馬台国近畿説や「箸墓=卑弥呼の墓」の立場を捨てることが出来なかった山尾氏は、立場を守るため、歴史的卓見した自説を捨ててしまう方を選んでしまった。
 5 改訂版のはしがきに改訂版を出すに至った経緯は述べられているものの、山尾氏の「失考を指摘」した人物やその内容については何も記載されておらず、また、『日本古代王権形成史論』でもその点について議論の詳細な記載はない。

 

<平成26年(2014)5月勉強会>

 この時の勉強会では平成21年6月、7月勉強会と同じ考察結果の説明。

 

<平成28年(2016)12月勉強会>

 この勉強会に先立つ2016年11月号のフォーネットに、「前方後円墳は銅鏡と銅鐸の合体形であり神武天皇の天下統治の理念を具現化したもの!」という考察内容が初めて紹介される。

 直前の入院期間中、「大和王朝万世一系」と言いつつ、その実態はヤマト王朝が奴国王家の血筋を取り入れて政権運営をしていた事を考えているうち、パッと「鏡」と「鐸」が合体したイメージが浮かんだとのことキョロキョロびっくりマーク

 これ以降、先興「奴国王家(銅鐸祭祀)」と後興の「ヤマト王家(銅鏡祭祀)」による宗教対立の視点からわが国の1世紀から4世紀についての考察が「記紀」と考古学の両面から深堀されるようになったんだとわかります。