半島の王族の姓:令和4年8月号② | 生野眞好の日本古代史研究会記録

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在野の古代史研究家 生野眞好(しょうのまさよし)先生の勉強会や月刊誌フォーネットに連載中の記事の概要などを紹介しています。
「魏志倭人伝」や「記紀」などの文献史料を中心に邪馬台国の位置、ヤマト王朝と先興の奴国王家との攻防(宗教対立)と共存などの検証です。

 フォーネット8月号概要の続き②です。

 昨日は、半島の上代における史料『三国史記』が民族主義の芽生えの中で編纂されながらも、「」をキーワードに半島の王族と倭人との関係が見えてくる、という内容でした。

 今日は記事の後半を紹介します。

<半島の王族に「天(あま)」氏はいない>

 中韓の記録によれば、高句麗王の姓は「高」で、百済王は「扶余」となっているが、高句麗も百済も始祖は「同じ高朱蒙(東明聖王)」。共に同じ扶餘族(解氏)の出自で、3世紀末に高句麗が扶餘国を吸収した際、百済は高句麗から分かれて自立した。

※異説あり。

 一方、新羅の場合は、倭人・中国人・朝鮮民族などの血が入り交り、その姓も初期の「朴」に始まり、次に倭人系の「昔」から「金」へと代わっている。

 この点『隋書』新羅国伝には、「其の人、華夏、高麗、百済の属(やから)の雑(まざ)り有り。~其の王、本は百済人。海に逃れ新羅に入り、遂に其の国の王となる(金氏?)。祚(くらい)を伝え、金真平に至りて開皇十四年(594年)に遣使し、方物を貢ぐ。」とあり、新羅は単一民族ではないことがわかる。

 そこで、あらためて「天の日矛」の「天(あま)」姓を鑑みると、新羅はもとより高句麗や百済の王族の姓にそれは無い。

 ただ、「天」が姓であると断言はできないが、古代の東アジア史上で「天」姓を持つ王族がいたのは列島の倭国だけ!

 『隋書』俀国伝の開皇二十年(600年)の条に、「倭王(聖徳)の称号は『阿輩鶏弥(おおきみ:大王)』で、姓は『阿毎(天)』、字は『多利思比孤(たりしひこ:天の足日子)』と記録されている。

 なぜ、新羅の王子「天ノ日矛」は、新羅王家の「朴・昔・金」ではなく、倭国の王族と同じ「天」なのか?

 →それは、彼が「奴国系倭人(脱解)」の子孫だったからではないか!

 生野先生は、「天ノ日矛」は4世紀初頭の頃、後継争いに敗れたか政変などで国を追われ、先祖脱解の祖国「丹波国(多婆那)」に戻ってきたのではないかと、推測されてあるそうで、続きは次号のお楽しみ・・・ニヤリ