新羅は倭人が建国:令和4年8月号① | 生野眞好の日本古代史研究会記録

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在野の古代史研究家 生野眞好(しょうのまさよし)先生の勉強会や月刊誌フォーネットに連載中の記事の概要などを紹介しています。
「魏志倭人伝」や「記紀」などの文献史料を中心に邪馬台国の位置、ヤマト王朝と先興の奴国王家との攻防(宗教対立)と共存などの検証です。

 生野先生からフォーネット7月号をいただきました。

 前月から引き続き「新羅の王子『天ノ日矛』は倭人だった」をテーマに今月は2回目です。

 前回は、そもそも「新羅王子」の「新羅」がいつの時代の「新羅」だったのかを、中国正史『梁書』新羅(しんら)伝や韓国正史『三国史記』新羅本紀、旧奴国系一族が編纂した『出雲国風土記』などを検証した内容でした。

 では、早速、今号の概要ですが・・・・・・史料である書名も出てくる国名も多いうえ、時系列に半島の情勢を捉えるのが手強いえーん

<大陸からの避難民>

 新羅の建国については、『三国志』や『後漢書』の「韓伝」に、秦の始皇帝の頃、多くの国民が匈奴との戦いや万里の長城築造の苦役を避けて朝鮮半島に避難した時に始まり、その人々は自ら「秦人」と言ったと書かれている。

 当時の半島南部には「土着の馬韓人の韓国」と「倭人の国の狗邪韓国(かやハン)(倭名は伽耶加羅(かやから)」が在ったが、馬韓の王がその難民(秦人)に半島の東部を分け与えて出来たのが「辰韓(秦韓)」の起源とも書かれている。その辰韓からさらに弁(わか)れたのが弁韓で、この時点から韓国は馬韓・辰韓・弁韓の三種の国(三つの政府)となった。

 つまり、辰韓と弁韓は、紀元前2世紀以降中国難民が建てた国という事になるが、その一方で「倭人」との深い関りも記録されている。

『三国志』弁辰伝には、「辰韓人は後頭部が絶壁でチーン倭人独特の風習である刺青もしており倭人に近い」と書かれていて、その頃の辰韓や弁韓が倭人の政治的影響下に置かれていた可能性があると思われる。

<瓢箪(ひょうたん)がキーワード!>

 韓国正史の『三国史記』新羅本紀には、始祖の朴(パク)赫居世は天から降ってきた卵から生まれ、その卵の形が箪(ひょうたん)に似ていたので姓を「」としたと書かれている。また、朴赫居世の時代、瓢箪を腰に下げて渡来した「瓢公(倭人)」が朴氏の重鎮として仕えた事や、辰人は瓢(ひさご)のことを「朴(パク)」と言ったとも書かれている。 

 始祖の赫居世と倭人の「公」が「」で繋がっているびっくり

 しかし、中国語の「朴」に瓢箪の意味は無く、なぜ12世紀の韓国正史が辰人(秦人)の言語では「朴=瓢箪」と無理な説明をするのか?

 

 →こじつけ的な説明の背景

 高麗王国時代の1145年に成立した『三国史記』は、朝鮮半島の上代史について倭国だけではなく中国の影響も排除もしくは無視しようとしている。それは当時の高麗国に芽生えていた民族主義的立場によるものと思われる。

 上記の朴赫居世の「卵生神話」のほか、紀元前に中国人が建てた「箕子朝鮮」や「衛氏朝鮮」、倭国の「任那(みまな:倭国王)」の存在も半島の歴史から表向き消そうとしている。

13世紀の私撰『三国遺事』の「檀君神話」も同様!

「新羅の建国には倭人や中国人の関与は無かった事にしたい」という苦肉の策か?

<脱解王は倭人!

 生野先生は、辰韓、特にその中の一国「斯慮(シロ)国(または斯羅(シラ)・新羅)」の建国には倭人が深く関わっている可能性を想定されています。

 その根拠として、『三国史記』新羅本紀に書かれている第4代の「脱解王」について詳細な検証をされています。やや長いけど歴史ドラマを見るような気分ですてへぺろ

①脱解は日本列島の「倭国の東北一千里(約450km)に在る多婆那国」で生まれた。

生野先生は多婆那を倭名の「丹波国」と推定。

②多婆那国王は「女国(邪馬台国?)の王女を妻としたが、王女は妊娠して7年目ポーンに「大卵」を生んだ。(始祖の朴赫居世と同じ卵生神話)

③多婆那国王はそれを棄てさせたが、妻は卵と宝物を錦で包んだ櫝(ひつぎ)にいれて海に流した。(ここの海とは日本海か?)

④櫝は朴赫居世の在位39年目(前19年)に辰韓の阿珍浦に漂着。

⑤老婆が拾った櫝を開けた時、鵲(かささぎ)が飛んでいたのでその子の姓には鵲の略字「(シャク)」、名を「脱解」とした。

⑥脱解は漁師をしながら学問に精進し、ある時、楊山の麓にある始祖の朴(パク)赫居世の土地を謀略で奪い獲り其処に住んだ。

⑦西暦8年、第2代南解王は聡明な脱解に自分の長女を嫁がせ、脱解を大輔(宰相)にして軍事や政治を委ねた。

⑧西暦57年、第3代儒理王が亡くなる時、62歳(?)になっていた脱解を第4代王位に即かせた。(この時点で「倭人」が初めて「昔氏」として新羅王になった)

⑨在位2年目(58年)に「倭人の瓢公」を大輔(宰相)に任命した。(え~っ、瓢公って一体何歳やねん?・・って突っ込みは関西風)

⑩在位3年(59年)倭国(奴国か?)と好みを結び、互いに交流した。(漢ノ倭ノ奴国王の時代)

⑪在位9年(65年)、深夜に金城(新羅の都)の西にある始林で怪しい鳥の鳴き声を聞いた脱解が瓢公に様子を見に行かせたら、木の枝に金色の櫝が掛かっていてその下で白い鶏が鳴いてた。その櫝には変わった容姿の小人が入っていて、脱解はその子を天からの授かりものとして養育した。金色の箱に入っていたので姓を「」、名を「閼智(アルチ)」とした。(ここで「朴・昔・金」の新羅の三大姓が出揃った!)脱解は、始林を改名して「鶏林」として国号とした、(鶏林=シラギ?)

⑫その後、王位は「朴」氏に戻ったが、第9代伐休(ポルフ)王から第16代訖解(ホルヘ)王(356年没)までは、再び倭人系の「昔」が王位を継承した。(※第13代味鄒(ミチ)王は金氏)

 356年に「昔訖解王」に代わって「金奈忽(キムナルム)王」が第17代新羅王に即位して以降、935年「新羅国」が滅亡する第56代「金敬順王」まで金氏の時代が続く。

 

 以上の経緯が史実を反映しているとするなら、新羅の始祖の朴(瓢)」氏と倭人の「瓢公」、そして倭人の「昔脱解王」の三者は「瓢と倭人」で繋がっているように見える。

 

 あ~ぁ、疲れたチーン

 まだ記事の後半部分に半島の王族の姓に関する考察が続くのですが、明日頑張ります。