フォーネット6月号の概要②です!
今回は、「和」の訓読みの「な」は、奴国の「な」から来てるんじゃないか、という検証です。
このテーマは2018年(平成30年)12月勉強会③でも紹介していますが、生野先生自身、この仮説はまだまだこれからの検証が必要で、とりあえず今後の研究課題としておくとのことです。
ただ、もしこの仮説が立証されれば、神武率いるヤマト王家に敗れて滅亡した奴国王家とその氏族らが、実は「ヤマト王家の中で共生していたこと」や「記紀」の建前である大和王朝万世一系ではなく「奴国王家との共生国家」だったことの傍証になるそうです。
ヤマトと奴国の覇権争い(いわゆる「倭国大乱」)は、当時の中国王朝が列島やそこに住む人を表していた漢字表記「倭」を名乗るための「国名」争奪戦の一面もあるってことらしいです。
歴史にタラレバは無いと言いますが、もし、ヤマトが負けて奴国が勝っていたら「倭国」と書いて「なこく」って訓んでいたかもしれない!
フォーネットでは紙面の制限があって、あまり詳しくないので、 2018年12月勉強会概要③の方を紹介します。
ヤフー時代のブログなのでリンクする方法がわかりません
記事のコピーを少し省略しています。
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12月勉強会の概要の続き③です。
今回は、生野先生が、奴国王家の存在を「物部氏の謎」を解明することで証明する中で、もう一つ気になる事・・「和」の発音の・「ナ」についての考察です。
なぜか古代より「和」は「ナ」と訓まれることがある。本来「和」は中国音で訓まれることが多いのに、あえて「ナ」と訓む理由があるのか?
「和」の中国音:漢音⇒「カ」(クワ)
:呉音⇒「わ」
:唐音⇒「オ」(ヲ)
①「和」が付く元号
和銅(わどう)、承和(じょうわ)、仁和(にんな)、応和(おうわ)、安和(あんな)、寛和(かんな)、長和(ちょうわ)、康和(こうわ)、養和(ようわ)、貞和(じょうわ)、文和(ぶんな)、永和(えいわ)、弘和(こうわ)、元和(げんな)、天和(てんな)、明和(めいわ)、享和(きょうわ)、昭和(しょわ)
②漢風諡号「和がつく天皇
淳和(じゅんな)天皇、清和(せいわ)天皇、昭和(しょうわ)天皇」
③寺院:「仁和寺(にんなじ)」
当初は「ワ音」だったものが後に「ナ音」に音便・転訛した可能性はあるか?
⇒ありえない!
なぜなら、元号や漢風諡号は「音読み」であり、当時63音以上あった倭音の中からわざわざ「ナ音」だけを選抜して「和」の別音に用いる理由がない!
反対に「ワ」から「ナ」に音便・転訛した可能性はどうか?
例えば、 「和銅(わどう⇒などう)」、「享和(きょうわ⇒きょうな)」、「昭和(しょうわ⇒しょうな)」 などと、わざわざ「ナ」に訓み変えることもあり得ない。
では、なぜ「和」が「ナ」と訓まれるのか?
平安時代以降、現在に至るまで「和」が「ナ」と訓まれている事実は、当時から「和」を中国音(呉音)の「ワ」共に「倭音のナ」でも発音する「慣習があった」のではないか?
<その根拠>
『倭国』の漢字表記を『ヤマトの国』も『ナの国』も共に自国の国号表記に用いていたのではないか!
紀元前の周王朝以来、わが国は歴代中国王朝から一方的に「倭・倭人・倭国」の文字を当てられてきた。
問題なのは、4世紀後半(応神の頃)、わが国が漢字を正式に国字として採用したとき、「倭国」という漢字の中国表記をそのまま「ヤマトのクニの当て字」として用いたこと!
つまり、中国王朝は「倭国(わこく)」のままであったが、わが国はそれを「倭国(やまとのくに)」としたため『同字異音』の関係が生じた。
これについては勉強会では「倭人伝」や「記紀」など詳細な事例を考証しながら説明があったのですが、ちょっと面倒なので下の表を参照してください
<国家全体の国号表記と国都の関係>
また、この考え方が正しければ、「奴国」の存在とヤマト王家と奴国王家の対立から
共存に至る歴史的経緯も見えてくる…・