生野先生からフォーネット6月号が届きました!
早速、「ヤマト王家と共生した奴国の王族 第九回」の概要を紹介します。
前号までは、記紀の「大和王朝万世一系」の建前の中、実際はヤマトとの覇権争いに敗けた奴国王家の王族たちもヤマト王家と共生した(王朝の政権内部に含まれていた)ことの傍証の一つとして、神功・応神母子に焦点をあてた説明がありました。
今号は、我国の国名に焦点を当てた検証です。
<大倭国(やまとのくに)から大和国(やまとのくに)へ>
現在、当たり前のように現奈良県の旧国名「大和国」や「戦艦大和」を「ヤマト」と訓んでいるが、本来それは訓読みでも音読みでもない。
なぜ、「大和」と書いて「ヤマト」と訓むのか?
⇒それは、ヤマトの当て字だからぁ~・・・・ってチコちゃん風
「ヤマト」を「大和」と表記する以前は「大倭」だったが、「記紀」に「大和」は一度も出てこないので、「大和」は720年に成立した『日本紀』以降の漢字表記と考えられる。
※真福寺本の一個所に「大和」が出てくるが書写時の誤記とされている。
また、『古事記』は、国全体を「大倭国・倭国」と書き「日本」が一度も出て来ない。
それに対して、『日本紀』の方は、神代から国家全体を「大日本(国)」・日本(国)」と書き換え、国都を「大倭国・倭国」と書いている。
古代においては「倭」も「日本」のどちらも「ヤマト」と訓んでいた。
<例>
『古事記』の「夜麻登登母母曾比売(やまととももそひめ)」を『日本紀』は「倭迹跡日百襲媛(やまとととひももそひめ)」と書いているので「倭」が「ヤマト」であることがわかる。
一方、「日本」も「ヤマト」と訓むが、それは、『日本紀』神代(上)の「国生み神話」冒頭に「日本、此れをば耶麻謄(やまと)と云う。下皆此れに效(なら)え」という説明がある。
<国名表記の変遷(弥生時代から平安時代中期頃まで)>
当初国家全体の国号だった「倭国(やまとのくに)」は、天智朝の668年正月に佳字の「日本(やまとのくに)」へと改められる。
※この部分は、生野先生の著書「日本国成立」を是非ご一読くださいm(_ _)m
国号表記が「倭国」から「日本国」に変わって以降、旧国都名(現奈良県)の漢字表記も数回変わっている!しかも、その旧国都名の変遷に合わせるように、遣唐使を務めた明法家の「大倭小東人(やまとノをあずまびと)」の氏名が変わっている!
法律の専門家であり、養老律令の編纂にも関わった大倭小東人は、法規を遵守する立場から旧国都名の変遷に合わせて自分自身の氏名の漢字表記を変えていたと思われる。
※『続日本紀』では、彼は「大和国造(やまとノくにノみやつこ)・大和長岡」として769年享年81歳で亡くなっているが、彼が自分の氏名を「大倭」から「大和」に変えた757年が、記録上「大和」の初見となる。(生野先生調査)
「倭」と「日本」どちらも「ヤマト」については、このブログの2015年7月号のフォーネットの概要でも紹介しています。よかったらご参照してください。
後半、「和」を「な」とも訓むのか?についての説明がつづきのでが、また後日頑張ります